先に読んだ『ポーツマスの旗』が日露戦争のエピローグだとすると、この『ニコライ遭難』はプロローグにあたるだろうか。『海の史劇』は、主部にあたるのだろう。が、プロローグとエピローグの中間にあたる適当な戯曲・演劇(?)用語はあるのだろうか、などと余計なことを考えてしまった。
さて、このニコライ遭難の主人公、ロマノフ家のニコライ(1868-1918)は、後に帝政ロシアの最後の皇帝ニコライ2世(在位1894-1917)となった人物で当時のロシア皇太子。(父皇帝はアレクサンドル3世。)日露戦争当時は皇帝となっており、その敗戦や拙劣な国内政策により第1次ロシア革命(1905)を誘発し、さらに第1次世界大戦中、2月革命で退位を強いられ、ソビエト政府により10月革命後にシベリアで処刑された。
時は、日清戦争前夜の日本。
皇太子ニコライの極東外遊のそもそもの目的はロシアによるシベリア鉄道の極東ウラジオストクまでの敷設を記念する式典に出席するためであり、日本への公式訪問はそのついでに計画されたという経緯があった。大日本帝国側としては当時の帝政ロシアによる日本の皇族の歓待ぶりも考慮し、国賓として丁重に歓迎することになったというが、その背景には大国ロシアの極東進出への恐怖心もあった。さらに、皇太子一行の訪問の目的が、仮想敵である日本の敵情視察の可能性も否定できない情勢で、それに対する国民の反発感情もあったようだ。
ロシアの皇太子ニコライの旅程は、ロシアの戦艦に乗船し、ギリシャの王子を誘い、まずは長崎を訪れ、その後なぜか鹿児島に向かい、神戸、京都(そのついでに琵琶湖観光)、最後に帝都東京を訪問した後、ウラジオストクに向かうという日程だった。
長崎は、ロシア軍艦の寄港地となっており、ロシア料理の店などもあったらしい。皇太子のお忍びなどは相当詳しい事実が明らかになっているようで、興味深い記述がたくさんあった。
鹿児島行きについては、西南戦争で敗れた西郷隆盛等が実は生存していてロシアに逃げており、このたびの皇太子の日本訪問に伴って帰国するのだ、という噂がどこからか巻き起こり、全国紙にも掲載されて、相当の騒ぎになっていたという。先の大震災の時の噂は、WWWを通じたネットでの拡大の面があったが、そのようなツールの無い時代にも、デマの拡大というものは、群衆の心理を背景としているという点で、興味深いものだと思う。
皇太子一行は、明治維新の原動力となった鹿児島についてロシア皇帝などから聞いており、それが鹿児島行きの理由だとされるが、本当のところはどうだったのか。長崎と比べると比較的短い訪問で、その後日向灘から瀬戸内海に入り、神戸に上陸した。
皇太子一行は、神戸からは京都を訪問し、その後、事件の地となった大津を訪れた。
本来は、大津で琵琶湖を観光したのち、いったん京都へ帰り、東京で天皇を表敬訪問してから、ウラジオストクへ向かう予定だったが、琵琶湖を観光して、人力車で京都へ戻る途次、沿道警備を担当していた警官(巡査)津田三蔵に突然サーベルで頭部を切り付けられたのだった。
皇太子に対するテロとしては、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件でのオーストリー皇太子夫妻の暗殺が有名だが、このロシア皇太子へのテロも、皇太子が死亡ということにでもなれば、当時の世界情勢からは当然開戦のきっかけになる事態であり、また軽傷でもロシア皇帝の判断によっては開戦、少なくとも領土割譲を含む賠償を求められる恐れもある緊急事態だった。この辺りの緊迫感は、この後の日露戦争の事実を知っている後世の人間としても、恐るべき事態であることが得心できた。
この緊急事態の連絡を受けた時の明治天皇は、自らが陳謝と見舞いに出向くことを即日決定し、実際に列車で京都に向かった。明治天皇の人物像については、戦後教育を受けた人間としては明確な像が結べないでいるのだが、たとえ周囲の重臣、側近たちの助言はあったにしても、自ら出向いて誠心誠意陳謝するという行動的な姿勢は、君主たるものあるべき姿だったと感じた。
幸い皇太子の受けた傷は重傷だったものの命に関わるものではなかったが、時の駐日ロシア公使の判断で、軍艦に乗り組んできたロシア人医師のみの治療しか受け付けず、日本側の治療は完全に拒否された。明治天皇による陳謝と見舞いはさすがに受け付けたが。
その後、皇太子は神戸港に停泊しているロシア軍艦に戻ったが、日本側はロシア皇帝、皇后がどのような態度を示すかに怯えていた。悪くすれば開戦であり、当時の日本では、皇太子一行の軍艦だけでも一蹴されてしまうほどの海軍力しかなく、世界最大の陸軍国であるロシアには到底勝ち目は無かった。この時、ロシアが日本を攻撃しないという判断をしたのは、大きな歴史の転換点でもあっただろう。そうすれば、日清、日露戦争もあり得ず、日本はロシアの属国と化していたかも知れない。それほどの危機だった。逆に当時のロシア皇族がロシア国民の支持を強く受けていれば、ロシア世論が対日強硬姿勢に傾く恐れもあったのだろうが、帝政末期のロシアはそのような国民感情はなかったのかも知れない。
結局ロシア側は、強硬な態度に出ることもなく特に条件を付けることもなく、日本側の陳謝を受け入れた。皇太子は傷は癒えつつあったが、日本側の甘い期待に反して東京訪問は見送り、神戸から瀬戸内海を通り、日本海へ出てウラジオストクへ帰国することになった。その直前、明治天皇が皇太子からロシア軍艦に招かれた。最悪のケースでは、天皇が軍艦に抑留され、人質とされる危険性もあったが、明治天皇はロシア軍艦に少数の随員とともに赴き、誠意をもって送別の宴に連なった。
この事件の経過とその後の大津事件の裁判については、司法権の独立、罪刑法定主義の典型例として日本の法学史でも学習したものだが、大審院長の児島惟謙(こじまこれかた)だけでなく、この事件の裁判官たち、および当時の代言人と呼ばれた弁護士たちの多くがこの国家的な危機においても筋を通し、軍人・政治家の西郷従道(隆盛の弟)などからの皇族に対する危害(大逆罪)適用による死刑の要求を撥ねつけた過程が興味深く描かれていた。政府としては死刑適用により、ロシアの機嫌を和らげようという意図があった。司法界の独立的態度には、薩長政府に対する他の諸藩出身の秀才たちが司法界に集まらざるを得なかったことも一要因として挙げられていた。これも大きな岐路だった。
判決で謀殺未遂罪を言い渡された後の津田三蔵についてはほとんど知られていなかったが、収監された北海道の釧路の刑務所で肺炎で死亡したことが、記録として発見され、この記録を知ったことが、作者の吉村昭が「大津事件」を小説として書こうとした動機だったという。
津田三蔵が皇太子を襲撃した動機については、必ずしも納得できる説明はなかった。過去に精神錯乱の病歴もあったようだし、供述では「皇太子が直接東京に向かわず鹿児島や京都を遊覧しているのは、天皇に対する不敬だと考えた」というようなことを語っていたようだ。恐露心理による発作が背景にあったことがうかがわれる。
皇太子ニコライは、のちにロシア帝政最後の皇帝となり、日露戦争当時の皇帝だったわけだが、ポーツマスの講和にあたっては日本にまったく譲歩するつもりはなかったことが、「ポーツマスの旗」でも描かれていた。これは素朴に考えれば、大津事件の余波だったのかも知れない。
また、この事件によって強くかもし出された日本全体の恐露心理が、後の日清、日露戦争の戦備、および朝鮮併合、満州国樹立までつながる軍備拡張、対ロ防衛政策のきっかけの一つだろうと思うと、歴史の偶然というものを強く感じる。
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