以前から思っていたが
公正な自由競争下での安値合戦はよいことだ。
しかし、消費者、利用者としては安値を探すことによるストレスなどデメリットは結構大きいのではないかと思う。安値を探すことが自己目的化してしまい、肝心の本来の目的が見失われがちだからだ。
江戸時代の農民道徳か武士道徳の残滓かどうかは分らないが、値段を値切ることは、褒められた行為ではない(もっと率直なあけすけな言葉だと卑しむべき行為である)と言う固定観念が自分にはあるように思う。どうも抵抗感がある。しかし、外国のマーケットでは値切りが当たり前だということを知ったり、以前電気街だった秋葉での値切りも経験したりして、その固定観念は揺らいでもいる。
自由競争で、情報化の時代の今日、安値で買えないと敗北感が生じてしまう。値段の変動もあり、値崩れでまだ安いものがあるのではないかと踏ん切りがつかないことがあるし、型落ち品があまりにも安く買えることもあり、値切りは悪徳という先入観にも関わらず、心は穏やかではない。
携帯電話やネットワーク関係の料金は、これが社会インフラであるにも関わらず、技術の進展が早いこともあり、複雑で流動的であり、また、運用会社によっても千差万別ということもあり、いったいぜんたい損をしているのか得をしているのかがわからない不安定な精神状態を生み出しているようにも思う。さらには、交通機関の料金も飛行機のみならず、JRの新幹線料金にも早割だの割引が出て、それをうっかり逃すと悔しいし、公立の美術館・博物館にもある各種の割引クーポン券も、後で知ったりすると損をした気分になってしまう。
別に料金を節約することが目的で生活したり、旅行したり、鑑賞したりしているわけではないのだが、先の名古屋の旅行記でも、半分そのような手段としての節約旅行が目的化しているようなおかしなねじれを感じる。もちろん懐に余裕があれば、そのような節約や割引に汲々とする必要はないことは分かってはいるが、どうも精神の持ちようとして後ろめたいというか居心地が悪いものがある。
今回の高速道路のバス事故の背景にも、過当な価格競争があるのではないかとの指摘もあるし、急速に航空機輸送でも広まっているLCCと略される Low-Cost Carrier も安全面での懸念があるのではないかとの懸念がある。
現在の日本は、中国製のみならず、ベトナムやいんどねしあ、さらに最近では最貧国の一つだったバングラデシュ製の廉い労賃を用いて生産した品物を現地から輸入し、廉価で売ることにより、購買者である消費者の賃金の落ち込みをカバーしているような感じがしている。100円ショップしかり、ユニクロしかり。
経済水準の差を利用しての商売は、現在の国際ビジネスでは当たり前のように行われているのだが、厳しい見方をすれば、一種の労働力の収奪になるのかも知れない。
経済大国ながら自己肯定感・幸福感の低い国となって久しいが、これは教育の問題というよりも、経済の問題なのかも知れない。
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