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2013年9月13日 (金)

堀辰雄の年譜と『風立ちぬ』の時間設定の対比

インターネットで評論やあらすじなどを読ませてもらうと、「死のかげの谷」の章の冒頭に記されている「三年半」の影響だと思うのだが、「死のかげの谷」での記述がサナトリウムでの療養の年から「三年半後」とするものがときどき見かけられ、そうだったろうかと違和感を覚え、再確認してみた。

青空文庫図書カード: 堀辰雄 『風立ちぬ』 

「冬」の章と「死のかげの谷」の章は、この小説の語り手である「私」が、それぞれの章を1935年と1936年として、年月日を明確にした「日記体」で書いているので、それをもとにすると小説の全体のおおまかな時間設定がほぼ確認ができる。

その結果を自分なりの覚書として、実際の年譜と作品との対比を整理してみた。

関連年譜 抜粋 と ※『風立ちぬ』の時間設定 との対比

◆1933年
7月 矢野綾子と軽井沢で出会う

   ※『風立ちぬ』「序曲」の章では、西暦は明示されていない。

 
   「それらの夏の日々」

   「そのうちにすべてが他の季節に移って行った。」等の季節を示す
      表現があるのみ。

   「死のかげの谷」の章の冒頭で、「殆ど三年半ぶりで見るこの村」
      とある ことから1933年の夏から秋にかけてと類推される。年譜と
      一致。

   「春」の章の4月には、また「私達がはじめて出会ったもう二年前にも
      なる夏の頃」ともある。

◆1934年
9月 矢野綾子と婚約
 

  ※『風立ちぬ』「春」の章では、3月に「その頃私と婚約したばかり」とある。

  
   1934年は小説設定上で明確に言及されることは無いようだ。省略
   というよりも空白の期間?

◆1935年  
6月 矢野綾子の病状悪化、自身の病状も思わしくないためともに富士見療養所に入院
11月 自身の健康は回復、創作欲がおこるもなかなか書けず
12月3日 矢野綾子、早朝にひどい喀血
12月6日 矢野綾子死去(満24歳)

  ※『風立ちぬ』 「春」の章 : 1935年3月から4月下旬にかけて(1935年
       であることは「冬」の章の日記の日付からわかる)

   「三月になった。」、「四月になってから」
        ⇒ 3月、4月:節子の(父の)家

   「四月下旬の或る薄曇った朝、停車場まで父に見送られて、私達
   はあたかも蜜月の旅へでも出かけるように、父の前はさも愉しそう
   に、山岳地方へ向う汽車の二等室に乗り込んだ。」
    ⇒ 4月下旬に二人はサナトリウムに出発 

  ※『風立ちぬ』 「風立ちぬ」の章 

   1935年4月下旬 サナトリウムに出発した列車内。

   「季節はその間に、いままで少し遅れ気味だったのを取り戻すように、
   急速に進み出していた。春と夏とが殆んど同時に押し寄せて来たか
   のようだった。」

     4月下旬から10月末 サナトリウム

     「とうとう真夏になった。」

     「八月も漸く末近くなったのに」

     「それは或る十月のよく晴れた、しかし風のすこし強い日だった」

 
  ※『風立ちぬ』「冬」の章 1935年10月20日から12月5日(日記体)
         サナトリウム

◆1936年         
7月 軽井沢に行く
8月 信濃追分・油屋に行く(この年の暮れまで逗留)
9月 「婚約(仮)」(のち「風立ちぬ・序曲」)を書き始める
11月 「冬」(風立ちぬ続編)を執筆
12月6日 矢野綾子一周忌のため帰京、誰にも会わず2、3日してすぐ追分に戻る
    「風立ちぬ」エピローグを書こうと追分で冬を越すも書けず
12月  「風立ちぬ」(序曲・風立ちぬ)を「改造」に発表

 ※『風立ちぬ』には、この年の年譜的な事実はほとんど反映されていない。

◆1937年
6月   短編集『風立ちぬ』を新潮社より刊行
11月26日 川端康成帰京、その別荘を借りて(27日から?)ひとり執筆作業に入る
11月29日 野村英夫が来る 二人で薪拾いや水汲みをして半自炊生活に入る
12月5日  神保光太郎の結婚式と矢野綾子の三周忌のためひとりで上京
12月7日  ふたたび軽井沢の川端別荘に戻る
12月20日(23日?) 「風立ちぬ」終章の「死のかげの谷」を脱稿

  ※『風立ちぬ』「死のかげの谷」の章

  「一九三六年十二月一日 K・・村にて」

  「それは去年のいま頃、私達のいた山のサナトリウムのまわりに、
      丁度今夜のような雪の舞っている夜ふけのことだった。」

   ⇒ 1936年12月1日から12月30日(日記体)にはこの12月の経験が
     反映されている。ただし、綾子の命日の12月6日付けの日記は無い。

こうしてみると、年譜と作品との食い違いは、年譜の1937年と、作品の「1936年」だけのようだ。

なお、第3章にあたる章が「風立ぬ」と名付けられ、小説全体の題名と同じ題名を担っている理由について思いを馳せ読み直してみたが、「風」についての少しでも印象深い記述と言うと

それは或る十月のよく晴れた、しかし風のすこし強い日だった。近頃、寝たきりだったので食慾が衰え、やや痩せの目立つようになった節子は、その日からつとめて食事をし、ときどきベッドの上に起きて居たり、腰かけたりしだした。彼女はまたときどき思い出し笑いのよ うなものを顔の上に漂わせた。私はそれに彼女がいつも父の前でのみ浮べる少女らしい微笑の下描きのようなものを認めた。私はそういう彼女のするがままにさせていた。

くらいだろうか?

それ以降の『風立ちぬ』関連の年譜
◆1938年
3月下旬 向島の自宅に帰った後、杉並成宗の加藤多恵宅で結婚式
              前日まで静養
      「死のかげの谷」を「新潮」に発表、「風立ちぬ」完成

4月17日 室生犀星夫妻の媒酌で目黒雅叙園にて加藤多恵と結婚
             参列者は両家親族のほかは室生朝子(犀星の娘)と矢野透
            (綾子の父)と娘良子、それに立原道造のみというささやかな
             結婚式
5月    『風立ちぬ』を野田書房より刊行

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年譜で参考にさせていただいたサイト:タツノオトシゴ
http://tatsuno.shisyou.com/biographical-sketch.html

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