マーラー 交響曲第2番「復活」 秋山和慶指揮東京交響楽団 8月9日
この日は猛暑も少し収まったが、開演の15時前に川崎に着くには自宅を13時半には出なくてはならず、最寄り駅近くの時間貸し駐車場まで車で行き、その後200mほどを歩いただけだが、真夏の日盛りの中、妻と長男ともども大量の汗をかいてしまった。夏のコンサートや映画では、羽織るため(これはホールからのご案内メールにも書かれていたが)の長袖シャツが必須だが、それに加えて今回は用心のためにシャツの着替えをバッグに詰めて持参した。(その後、座席で羽織ったが、今回も正解だった。隣席の男性は、感極まったのか、エアコンの風で鼻がぐずったのか分からないが、鼻をすする音を立てていた。)
このコンサートは、この前の6月のコンサートの時にミューザのチケットカウンターで引き換えたので覚えているのだが、5月ごろウェブ予約で申込み辛うじて駆け込み的にチケットが取れた公演で、当日売りの合唱団席脇の40席ほどの追加販売も完売だったらしい。川崎駅のコンコースの電光掲示には、本日の公演完売御礼の赤い文字。とはいえホール入口では、チケットを求むの紙を持った人を一名見かけたほどだった。このフェスタ サマーミューザ KAWASAKIという音楽祭に来たのは初めてだが、はるか以前に訪れた松本市の「第2回サイトウキネン」(今年から名前が小澤征爾記念に変わるらしいが、小澤征爾氏の急な骨折のため本人の登場は期待できないことになってしまったらしい。第2回の時とは隔世の感がある)の華やかさはなく、逆に日常風景に溶け込むような気張らなさが感じられる親しみ深いものだった。
中学生の頃から音楽には親しんでいたが、田舎暮らしということもあり、本当に生演奏を聴いた経験が少なく、その少ないコンサート経験の記憶をたぐってみても、恥ずかしながら、多分マーラーの曲を生演奏で聴いたのは今回が初めての機会となる。最初から結論めいてしまうが、この「復活」のような強い魅力のある音楽を最初から耳にしてしまうような現代の青少年音楽ファンには、古典派やブラームスなどの渋い音楽が物足りなくなってしまうのもある意味理解できるような、それこそフルコースでてんこ盛りの豪勢なメニューを腹いっぱい食べたような経験だった。(あのサイモン・ラトルがこの曲を聴いて指揮者を志したという話を読んだことがあったり、この曲の専門とする指揮者ロバート・キャプランがいるなどのエピソードもこの曲のアピール力を示すものだろう。)
さて、このフェスティバルは在京とその周辺で活動するプロオケが日がわりで出演する夏の音楽祭で、リーズナブルな値段もあいまって人気が高いらしく、ようやく予約できたのがB席(3,000円)で舞台に向かって左側の4階席。席の移動の時にバランスを崩すのは本当に命の危険があるように思うし、高所恐怖症の人には絶対無理なような下をのぞき込むと怖いほどの天井桟敷さながらの場所。高所恐怖症ではないが心配症なので、この席に慣れるまで結構気を遣ってしまい、なかなか集中ができなかった。予約席で希望の席が取れないときの難点でもある。
これまで3回ほど聞いたミューザの比較的ステージに近い席とは大きく異なるため音響面では危惧していたが、第1ヴァイオリンを数えてみると16型の大編成のオーケストラの弦楽器群の各パート(俯瞰するので、その並びがよく見え、ボーイングの違いによってどこまでが第1でどこから第2ヴァイオリンかがよく分かったが、以外なほど入り組んでいた。)がほどよく分離して聞こえ、木管やハープ、金管、打楽器のソロなどは音が下から上ってくるので耳元で聞こえるような錯覚に陥るほどの良好な音響で、それこそ微妙なピアニシシモから、ホールが飽和してビリつく一歩手前の耳を劈くほどの大フォルティシシモまでをくっきりと耳にすることができ、マエストロ秋山和慶の「復活」を満喫することができた。(まだ正面エリアの2,3階では聴いたことはないが、このホールは今のところどの席で聴いても、どのパートの音もよく聞こえるし、かといってハーモニーや楽器の混じり合い、溶け合いがないというのではないため、音楽の形がよく「見える」ようだ。ステージ脇や後ろよりも高さと遠さを気にしなければこの4階席は音としては悪くない。)
この曲は録音ではテンシュテット/LPOのスタジオ録音盤、昨年か一昨年購入したバーンスタイン/NYP、それと昨夏購入したクーベリック/バイエルン放送響でそれなりに親しんできたし、若いころはかのラトルがバーミンガム市響を振ったライブがFM放送されたものをカセットテープへエアチェックしたものでもよく聞いた。近年では、漫画「のだめ」のビエラ先生がライバルの急逝に捧げてこの曲を振るシーンが印象に残っている。前日には、2012年の7月に行われた仙台の県民ホールの東日本大震災復興祈念の飯森範親指揮仙台フィルと山形交響楽団合同演奏会の録画を長男と予習にじっくり鑑賞して、とても感動した。ただ、長い曲でもあり、魅力的・印象的なフレーズが各所に現れて結構耳に親しいのだが、楽曲分析的にはベートーヴェンの「第九」とは違いその筋書的なストーリーがもう一つつかめないため、鑑賞しながらもいつも隔靴掻痒的に感じる曲でもある。
この日の生演奏を聴いて、マーラーの魅力を満喫するには、オーディオでも相当の大音量で聴かないとこの音楽を味わったことにはならないのかも知れないと実感した。その意味では、普段、ステレオイアフォンで聴いている音楽は、まさに形骸でしかないかもしれない(これでも十分楽しめるのだが)。
コンサート感想と言っても、まず初マーラーであり、初「復活」だったので、細かい気づきはいろいろあったものの、他の演奏との比較をするような詳細な感想はなかなかものすることはできないが、終楽章の第5楽章、合唱が登場する前の部分の「怒りの日」のモチーフから始まるブラスのコラールで、突然感極まって涙が出そうになったことは書き留めておくべきだろう。
最近音楽を味わうにあたって「感動」や「感激」だけを追い求めるような姿勢がすべてではないように考えが変わってきてはいるが、8月9日という長崎原爆投下70周年のこの日に、「復活」というキリスト教的な観念やトルストイの「小説」を想起させるものではあるが、人の死生というものを考えたときに避けては通れないテーマに生涯正面から取り組んだマーラーが、その若き日に「生きるために死ぬのだ」とコーラスに歌わせた終楽章にいたったとき、まさに一種の宗教の祭儀に列席しているような幻影に捕らわれるような感を抱いた。
すでに80歳にも近いというのに、指揮者の秋山和慶氏はとても若々しく、音楽もその姿に似て、折り目正しく、明快で、高い気品が感じられた。昨年大学オケの公演でも輝かしい「ローマの松」を聞かせてくれたが、このマーラーも光り輝く「復活」とでも称すべきかもしれないと思う。
第5楽章までP席に陣取っていたコーラスは、第5楽章の直前に起立整列した。中央に男声で両脇に女声。無理のない発声でよく溶け合ったハーモニーと明瞭な子音が聞き取れて、優れたコーラスだと思った。男声によるクライマックスでもホールの美しい響きを生かして、威圧的ではない心の籠った歌だった。オーケストラは多彩で素晴らしいが、人の声の力はやはり心に沁みとおる。
ソプラノとアルトのソリスト(ソプラノ:天羽明恵、メゾ・ソプラノ:竹本節子)は、第4楽章では下手と上手の弦楽器群の後方に分かれて座り、第4楽章ではアルトのソロ。深々とよくホールに響く声質で、アルト的な魅力が十分だった。この曲ではソプラノの出番は少なく比較的損な役回りだが、第5楽章の途中に、しずしずと二人のソリストが指揮者の両脇に歩み寄り、そこでデュエットを聞かせてくれたが、見事なものだった。
舞台の両脇の袖に陣取ったブラスのバンダもよく合っていた。遠くから聞こえるファンファーレは何を示すのか?終楽章のみ登場するパイプオルガンも、長時間の待機に耐え、華を添えていた。
大団円の終曲が終わると万雷の拍手とブラボー。思わず、自分もブラボーを叫んでしまった。
リスナーとしてもこの80分にもならんとする大曲を聴き通すには気力・体力が必要だが、これを破たんなく演奏し通すだけでも、指揮者、オーケストラ、合唱団、ソリストともども大変な気力、体力の充実を要求されるだろうに、生演奏でここまで充実した演奏を繰り広げるというのは誠にすごいものだ。聞き終えた後は、一種の放心状態となった。
いつの間にか膨れ上がった録音のコレクション(通しで聴いても数十日かかる)をあれこれとっかえひっかえ、ステレオイアフォンで楽しむのか、それとも比較的身近で触れることができる生演奏で日常的な音楽鑑賞に比べて短いながらも充実した音楽体験の時間を過ごすか、別に二者択一的に選ぶ必要はないのだが、そんなことを考えさせられた演奏会でもあった。
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フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2015
東京交響楽団フィナーレコンサート
戦後70年、未来への祈り
指揮:秋山和慶
ソプラノ:天羽明恵
メゾ・ソプラノ:竹本節子
合唱:東響コーラス
オーケストラ:東京交響楽団
(コンサートマスターは遠目で若い男性だったので水谷晃氏だと思い込んでいたが、別の人だったようだ)
https://www.kawasaki-sym-hall.jp/festa/calendar/detail.php?id=1598
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演奏会に行く前に、ネット検索していたら、偶然、この演奏会のことにも触れた指揮者の秋山和慶氏へのインタビューを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=KVrvl4KVR84
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