カテゴリー「Bartok」の21件の記事

2014年11月26日 (水)

第5回音楽大学オーケストラフェスティバル 第2日 ミューザ川崎

11/24(月・勤労感謝の日の振替え休日)

第5回 音楽大学オーケストラフェスティバル ミューザ川崎シンフォニーホール 15:00開演。全席指定。1000円。(終演 18:00頃)

上野学園大学 指揮:下野竜也
武蔵野音楽大学 指揮:時任康文
洗足学園音楽大学 指揮: 秋山和慶

9月頃の新聞の夕刊の広告に掲載されていたのを見つけ、全席指定1000円は安いし、指揮者陣は日本の一流クラスなので超お得ということもあり、7月のミューザ川崎のコンサートが楽しめたので、長男と行く約束をしていた。11月初めに最寄りのローソンチケットでチケットを購入しようとしたら、11/16(日)の東京藝大の回は売り切れ(その後、ミューザ川崎のHPで見るとローソンに回した分が売り切れで、舞台後方のP席などは未だ購入可能だったらしい。)で、今回の11/24の回が一階席ブロックが空いていたので、予約したところ、なんと舞台から2列目のこれまでほとんど経験したことのないような前の席が予約されてしまった。その後、妻も都合がつくので行きたいということになり、後日申し込んだところ、これも2列目の少し離れた席になった。

川崎駅前は、私たちがこちらに引っ越してきたから再開発が進み、かつての工業都市の玄関の面影がすっかり消えてしまい、都会的なショッピングモールやミューザの入っているようなオフィスビル、高層マンション群がそびえる、近代的で整然とした街並みになっている。

晩秋とはいえ、小春日和に恵まれた三連休の三日目で、前夜の長野県北部の地震の余震の心配はあったが、いそいそと約1時間を掛けて川崎駅に向かった。ミューザでは、この音大オケのフェスティバル以外にも、モントルージャズフェスティバルの日本版?がこの日あたりからスタートしていて、ホール入口の歩道のコンコースでは、野外ライブも行われていたりした。

14時半頃、ホールのロビーに入場したが、ホール内への入場は何かの都合があったらしくしばらく差し止められていた。多分リハーサルが長引いたのではなかろうか?見回してみると聴衆は、前回と同じく悠悠自適の年金層の60代、70代の音楽好きらしい男性が比較的目につき、そのほか音大の関係者や音大生の家族や友人と見受けられる人達も多かった。

1階の指定席は、まさにステージの際から2mもないほどの近接さで、ミューザのステージは30cmの段差もないほどの低さなので、ほとんど指揮者が聴くのと大差ない音響を聴くことができるようで、わくわくしながらオーケストラの登場を待った。

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場内アナウンスが「このフェスティバルは各大学間の交流と協力を目的としています。その一環として、各大学の演奏の前には共演校からのエールを込めたファンファーレの演奏があります。」と聴衆に紹介していたように、各大学の演奏前に、今回の出演大学の学生が作曲しその大学の学生が演奏するファンファーレが、他の出演大学の演奏の前にエールとして演奏されたが、ステージ最前列に、ずらりと横一列に金管アンサンブルが整列し、喨々とファンファーレを吹き鳴らしてくれたのには驚いた。金管の音のエネルギーというのは、オケで金管の前に座る木管などの奏者が難聴になる恐れがあり、その対策のため、木管奏者の椅子の背もたれ部分に小さい遮音装置を付けたり、奏者自ら耳栓をするなどの話を聞いたり見たりしていたが、約2mの近距離で吹き鳴らされる音は物凄い迫力だった。

さて、トップバッターは、読売日響の常任を務めていたこともあり、時折深夜に日本テレビで放送される読響シンフォニックライブでも数多く登場しその指揮ぶりに馴染んでいる下野竜也氏と上野学園。上野学園は、第五回目の今回が初出演ということだ。

下野氏の録音は、日本人指揮者としては我ながら珍しく、大阪フィルとのブルックナーの0番のCDを保有している。薩摩隼人らしい肝の据わった感じと、エネルギッシュさと、ブザンソンで優勝したほどの繊細精巧流麗な指揮技術の持ち主という印象を持っていたが、まさにかぶりつきの直後の席なので、指揮台なしのステージを大きく使ったその指揮ぶりは見ごたえがあった。近い席だと指揮者や奏者のブレスまでが聞き取れる。極小編成で極短いヴェーベルン(ウェーベルン)の作品10の5曲。ヴェーベルンのオーケストラ曲と言えば、30年ほど前に小澤/ボストン響の来日公演のバルトークのオケコンをメインにしたプロの第1曲目で聴いたことがあったが、作品番号は何番だったか。あの時は、上野の文化会館のステージからは遠い席で、ポツンポツンと鳴らされる音響を遠くから眺めるような感じだった。その後、カラヤン/BPOの新ウィーン楽派曲集などでその独特の音楽には多少馴染んだ(Op. 10は収録なし)が、無調で、さらにこのような室内楽ともいえるほどの小編成のミニマル的な音楽は、今回のような生演奏で、それも演奏者に近い席で聴く方が楽しめるようだ。その楽しみだが、いわゆるメロディーや和声を愉しむような通念としての「音楽」としての受容ではなく、楽器が発する様々な短い動機的な楽音の交錯と、休符や楽曲の間による楽音のホールに消えていくさまや、ホール全体が静けさに包まれる瞬間の緊張感のような一体感が感じられるというものだ。

このほかの新ウィーン楽派の作品の生の体験では、ベルクの弦楽四重奏による「抒情組曲」を、昔仙台にいた頃にあのアルバン・ベルク弦楽四重奏団の仙台公演で聴いたことがあるのだが、今聞けばどうか分からないが、不協和音の連続に麻痺してしまい、耳には音が入ってくるのだが、別のことが脳裏に浮かぶような状態だったことを思い出すが、それとはまったく正反対の聴体験だった。

2曲目のモーツァルトのハフナー交響曲は、あまりにも馴染の曲だが、生で聴いたのは初めてだったと思う。練習の成果か、アンサンブルもきっちりと揃っており、若きモーツァルトの思わず駆け出してしまうような楽想の溌剌とした魅力が楽しめる演奏だった。下野氏の指揮は、躍動的で、全身で音楽を表現し、思わず見とれ、聴きほれてしまった。音響的には、目の前に位置していた低弦(チェロ、コントラバス)のボリュームが小さ目だったのが気になった。これは席の特徴なのか、指揮者の解釈なのか、オーケストラの特徴なのかははっきり区別が付かなかったが、少々物足りなく思った点だった。いわゆる響きのベースとしての量感が不足気味だった。(補記 当日プログラムに書き入れたメモより:ティンパニがよく鳴っていて格好良かった。音色的には近年一般化してきたピリオド演奏的な少々硬めの音だったが、キビキビしていて全体を引き締めていた。)

席のことだが、ホールのセンターだが、ステージに向かってやや右側で、弦楽器の前列はよく見えるが、その後ろになるひな壇上の管楽器や打楽器奏者の姿はほとんど見えない。

第2団体目は、時任康文氏と武蔵野音楽大学によるバルトークの管弦楽のための協奏曲(通称、オケコン)。若い頃に何度も聴き、聴き比べて親しんだ曲。FM放送のエアチェックでも様々な指揮者、オケのものを集め、その後CD時代になっても初演者のクーセヴィツキーとボストン響の歴史的録音など数種類がいつの間にか集まっている好きな曲の一つ。前述したように、小澤とボストン響というコンビによる生で聴いたことのある曲とはいえ、最近は聞く機会が減っていた。

素人的な事前予想では、果たして膨大な協奏曲的な難しいソロやデュエットが含まれ、変拍子の箇所や、カノン、フガート的なアンサンブル上相当難しそうな箇所を含み、なおかつバルトーク的な緊張度を保ち、夜の音楽の静寂さ・神秘さを対比させ、野蛮と洗練を合せ持つような演奏が、音楽大学オーケストラに期待していいのだろうか、という少々意地の悪いことを危惧していたが、誠に見事な演奏だった。時任氏は寡聞にしてマスメディアを通じてはこれまで知ることは無かった人だったが、手際よくこの難曲を捌き、もし自分が奏者だったとしても演奏しやすいだろうな、と思わせてくれるような指揮ぶりだった。20世紀のモダンのフルオーケストラの大編成ということもあり、今度は低弦部の響きも物足りなさはなかった。難しい「対の遊び」でのデュエットには生ならではの微かな瑕瑾はあったが、全体的には申し分なく、また、中断された間奏曲での、ショスタコービチとメリー・ウィードウに淵源のあるという「愉快なテーマ」とそれに対する哄笑は、非常にビビッドな表現だったし、あのライナー/シカゴ響の名盤でもよく揃っていないフィナーレの冒頭の精密な弦楽器の刻み(この部分はセル/クリーヴランド管がダントツ)は、素晴らしく訓練されていたりして、とても満足のいく演奏だった。(なお、弦楽器の奏者の中には、大学の先生と思われる年代の奏者の方も交じっていたのは、それだけ難しい曲だということか、それともそのような伝統なのだろうか。)

第3団体目は、名指揮者、秋山和慶氏による洗足学園音楽大学によるレスピーギの「ローマの泉」と「ローマの松」。ステージ一杯のマンモスオーケストラは、見るだけで壮観だった。これも、20世紀のオーケストラピースとしてオーディオ的にも人気のある曲で、やはり若い頃には耳にすることが多かった。トスカニーニとNBC響による規範的なリファレンス録音がある曲で、比較的近年ではソ連の指揮者スヴェトラーノフによる爆演が話題になった曲でもあり、古くはオーマンディやムーティによるフィラデルフィア盤や、ライナー/シカゴ響で楽しんだものだが、生演奏としては初めて聞くものだった。秋山氏の指揮による演奏には、以前北海道旅行の折、新聞記事を読み立ち寄った北海道道知事公舎での札幌交響楽団の野外コンサートで触れたことがあるが、齋藤秀雄門下の名匠として、テレビ、ラジオなどでも触れる機会が多い人ではある。サイトウキネンオケの立ち上げでは、秋山氏も主導者の一人だったが、それがいつの間にやら「オザワキネン」になってしまった現状に疑問を感じている音楽ファンもいるのではなかろうか。閑話休題。

総白髪の紳士然とした佇まいで、にこやかな笑みを湛えて登場。この柔和な表情には、奏者は安心感を抱くだろうし、リスナーの側もその雰囲気に包まれる。イアフォンでのリスニングが専らになってしまった昨今、このような大オーケストラによる楽曲を聴くにしても、大音量で聴くことが少なくなっているし、さらに華麗で親しみやすく覚えやすいメロディーや音型にあふれているこのようなショウピース的なオーケストラ人気曲は、かえって途中で飽きてしまうことが多いのだが、前回このホールで聴いた「シェエラザード」もそうだったが、実演に接すると、あまりの面白さに集中力が途切れなかった。「泉」も「松」もメディチ荘だの、トレヴィの泉だの、ボルゲーゼ荘だの、アッピア街道くらいしか覚えておらず、交響詩の題名はうろ覚えだが、情景が極彩色で目に浮かぶようで、オーディオで聴いている音響が写りがそれほどよくない写真葉書だとすると、実演の鮮明で情報量が多く、ダイナミックレンジも無限に広い演奏は、まさに実景を味わっているようなもので、これはこの一連のコンサートの締めとして計画されていたのだろうが、アッピア街道の松でのローマ軍団の大行進の強烈なクレッシェンドは、圧巻で、最後のフォルティッシモ?が鳴り終わったあとの残響とともに、終演後は万雷の拍手とブラボーだった。そうそう、ジャニコロの松のナイチンゲールの鳴き声は、どうするのだろうと思っていたが、打楽器奏者?が録音の音源を流していて、上手くはまっていた。ただ、レスピーギの時代はミュージックコンクレートの走り的でそれも珍しくて話題を呼んだのだろうが、人口音響が氾濫している現代ではその意義はどのようなものだろうかとも思い、再現芸術としての音楽の難しさに改めて思いを馳せたのだった。

総じて、音大に入れるだけの技量を備えてその後訓練を積んだ若さ溢れる音大生のオーケストラが、一線級の指揮者によって、ここ一番の全力投球で奏でてくれる音楽は、やはりすがすがしかった。そして十分に聴き応えがあった。青春の息吹というものは、それだけ貴重な瞬間だ。

2013年1月20日 (日)

ライナー/シカゴ響 「ツァラトストラはこう語った」  

あのバルトークが影響を受けた作品としても知られるリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトストラはこう語った」(ツァラトストラかく語りき)。

以前、手持ちの数種類のCDの聴き比べをアップしたことがあった。

このところ、テレビ放送での音楽鑑賞では、リヒャルト・シュトラウスを聴く機会が数回あった。「家庭交響曲」(2012年のデ・ワールト指揮のN響)と「アルプス交響曲」(2012年のハーディング指揮のサイトウキネンオーケストラ)。映像で見ると、膨大な管弦楽編成がよく分かる。キャッチーなライトモチーフの使用による描写と、豪放華麗なオーケストレーションだが、伝えられる内容が空虚だとは、よく言われることだ。

ハンガリー系の、ジョージ・セルやフリッツ・ライナーは、同時代の作曲家だったリヒャルト・シュトラウスを得意にした。セルは録音に慎重だったのか、審美眼(耳)が厳しかったのか、この「ツァラトストラ」「英雄の生涯」などの正規録音は無いようだが、ライナーは比較的多く録音している。

今回のLiving Stereo60 ボックスには、このほかに「英雄の生涯」「町人貴族」「ドン・キホーテ」「ドン・ファン」「家庭交響曲」「エレクトラ」と「サロメ」からの抜粋、「ばらの騎士」のワルツ(ライナー編)と結構沢山収録されている。

初期ステレオながら、あまり濁りがなく、広がり・プレゼンスにもあまり不自然さがなく、明晰な音で収録、リマスタリングされているので、聞きやすい。

冒頭のオルガンのピッチとオーケストラのピッチがぴったり合っていないように聞こえるのが気になるくらいで、上記の聴き比べのどのCDにも増して、この演奏に感銘を受けた。1950年末のアメリカの録音は、個人的にはセルを除いて、少々色眼鏡で見がちで、つい本場ヨーロッパ志向が強くなりがちなのだが、この60枚セットを聴き進めると、当時すでにこれだけ高度な演奏、録音が達成されていたのか!との感慨を禁じ得ない。


2012年5月29日 (火)

モスキート音(高音域)の聞こえ方 簡易テストのページ

歌心のないドグマの響き - Wein, Weib und Gesang のリンクから

考える葦笛 : 音楽家の方はぜひお試しを!を読み、そこからのリンクで

モスキート音のテスト視聴で(耳の)年齢チェック - 分類不定気味な日報を見つけ、試してみた。

実年齢よりも一世代低年齢の音(より高い音)を聞くことができたが、さらにそれよりも一世代若い人向けの音は聞くことができなかった。

朝起きてきたティーンエージャーの子どもに聞かせてみたらその年代向けの音が聞こえないようなので、PCのスピーカー自体の再生周波数に影響されるかもしれないとは思う。

帰宅後、再度20-20,000Hzの再生帯域のイアフォンで聞かせてみたところ、実年齢の一つ上の年代のところまでは聞こえたと言っていた。どうやらノートPCのスピーカーの帯域は狭いようだ。

この関係で、検索してみたところ、

可聴周波数域チェッカ http://masudayoshihiro.jp/software/mamimi.php

というダウンロードして使用するフリーソフトを見つけた。人気のあるソフトのようで、相当詳細に可聴範囲が測定できるようになっている。

この結果はモスキート音テストのものとあまり大差はなかった。

SACDは、滑らかさや自然さ、聴き疲れの無さといった特徴はあるようだが、こと高音域に関しては自分にとっては無用の長物かもしれない?

2010年7月17日 (土)

デジタルオーディオプレーヤーHMP-X904 (日立リビングサプライ)

携帯電話のオーディオプレーヤー機能は別として、我が家としては初のデジタル音楽プレーヤーが長男が最近まで所属していた会からの記念品としてプレゼントされて入り込んできた。

このような携帯デジタル音楽プレーヤーとしては、アップルのアイポッドがあまりにもポピュラーで、その他ソニーも対抗機種を発売している程度の認識しかなかったが、日立でもこの系列の製品を作っているのを初めて知った。

公式サイト によれば、X934という機種が現役で、このX904は既に生産終了品とのことだ。

価格.com情報 によれば、非常に廉価なデジタルプレーヤーの仲間らしい。

包装箱をためつすがめつしてみたが、生産国の表示がないようだが、さすがの日立グループで、内部の梱包や説明書などは整然としている。(ネットで検索すると、生産国はどうやら中国のようだ。)

さて、肝心要の音質や操作性だが、オープン価格の廉価品ということもあるのだろうが、付属の(ステレオ)イヤホンで聴く限りは非常にチープで貧相な音しかしない。弦楽器の音は特別なイコライジングをかけたような金属的な音がするほどだ。イヤホン自体外観は丁寧に製造されているのだが、廉価なプレーヤーの付属品なので恐らく非常に廉いものなのだろう。

これを廉価とは言え音質的には悪くないソニーのMDR-E10LP に交換して聴いてみると、弦楽器の音の変質は無くなり、フルオーケストラでもそれなりに聴ける音質になった。

マニュアルによるとWindows Media Player (WMP)との同期が第一推奨だが、iTunesで取り込んだmp3をフォルダごとUSB接続したプレーヤーにコピーアンドペーストしてやることもできる。WMPは使っていないので、後者の方法で、長男のリクエストでチャイコフスキーの交響曲、協奏曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ独奏曲などを聴けるようにした。

価格.comのレビューやクチコミなどで指摘されているバックグラウンドノイズ(ジーという音)は気にならない。

比較的録音の新しいアシュケナージの「四季」に収録の「瞑想」Op.72-5のフォルテでも音割れはなく微妙な残響やペダルでのピアノの響きも聞き取れる。結構相性がいいかも知れない。

レヴァインとヴィーンフィルによる三大バレエでも、弦のトレモロの粒立ちもしっかりしているし、フォルテッシモでも混濁は少ないようだ。

私がPCでiTunesで聴く音よりは良いようだ^^; (こう書くとどんな貧相な音質で聴いているのかとからかわれそうだが、ソリッドステートプレーヤーはファンの風切り音やディスクの回転音が無く、DC電源であることも結構アドバンテージがあるようだ)

操作性的には、iTunes用の曲名、演奏者情報がID3タグに書き込まれているのだが、英語表記で詳細に入力しているので、小さいディスプレーでは読み取りにくいのが玉に瑕だ。それでも情報はこんなふうにきちんと表示してくれる。

Tchaikovsky: Symphony No.5 in E minor, Op.64 - 1. Andante - Allegro con anima

4GBものフラッシュメモリー搭載なので、192kbpsのビットレートで、約720曲(3分/曲として36時間)もの曲の取り込みが可能だが、少々小ディスプレーのため曲の検索がまだるっこしいのも気になるところだ。しかし、PCのフォルダの階層構造と考えて慣れればそう分かりにくくも無い。

この程度の廉価プレーヤーでも、結構聴けると分かったのは収穫だった。長男は結構楽しんでくれることだろう。

ただ、思えば 2005年2月24日 (木) バルトークとiPodとSACD のとんがっていたスタンスからは遠くへ来てしまったものだ。

2009年11月18日 (水)

ブルックナーの初期交響曲 第0番、第1番、第2番(インバル指揮フランクフルト放送響)

今晩は、少し夜更かしをしている。

先日も書いたが、ウォーキングに凝り始めてからは、パソコンに触ることや、本を読むこと以外にも音楽を聴くことも少なくなった。ある時期は、ほぼ毎日のようにiTunesに取り込んでは、イアフォンで音楽を聴きながら寝入るというようなことをしていたのだが、未だ相当取り込み残しがありながら、結構長い期間ほったらかしになっている。

このところで、少し真剣に音楽を聴いたと言えるのは、ズービン・メータとヴィーン・フィルの来日公演がNHKで放送され、すっかり音楽マニアになった長男と一緒に、そのビデオ録画を見たときくらいだ。ヴィーン・フィルにも女性リーダー(コンサートミストレス)が誕生したようで、一曲目のバルトークのオーケストラのための協奏曲は、その女性がコンミスを務めたものだった。メータとVPOがバルトークをやるというのは、非常に珍しいものだと思うが、アメリカで作曲されたこともあり、これまでアメリカのオーケストラによる録音を数多く聴いてきた耳にとっては、ヴィーン・フィルのオケコンは、とてもユニークに聞こえた。個々のソロ奏者は巧いことは巧いのだが、ブラスセクションは独特の音色が少し違和感を感じさせたし、終楽章などは、少しアンサンブルの緩さも感じたりしたが、総じて面白い演奏だった。続くベートーヴェンの第7交響曲は、まさに堂に入った演奏で、それより前にやはりテレビ放送で聞いたプレトニョフ指揮のロシアのオーケストラのユニーク過ぎる演奏とはまったく違っていた。

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  さて、そんな乏しい音楽生活だが、本当に久しぶりにCDを購入したのが、ブルックナーの第0番(1869 Ed. Leopold Nowak [1968])、第1番(1877 Linz version with revisions - Ed. Leopold Nowak [1953])、第2番(1877 First Critical Edition - Second printing. Ed. Leopold Nowak [1965])というあまり演奏されない曲。第0番は、今年の春だったか下野竜也指揮の大阪フィルのCDを近所のCD店の閉店セールで何と90%オフで購入していたので、以前に聴いたことがあったが、第1番と第2番の音盤はこれが初めて。

インバル指揮のフランクフルト放送交響楽団によるブルックナーは、テルデックへの録音で、用いた楽譜のバージョンの多くが初版かそれに近いものということで、特徴があり、話題になったものということは知っていたが、聴いてみると、大変鮮明で輝かしい響きを聴くことができ、とても面白かった。

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第1番も第2番も初めて聴く曲とは言え、ブルックナー独特の金太郎飴的な形式で作曲されているので、形式的な把握に苦労することはなく、音楽の素材の清新さに相当感激した。ブルックナーはともすれば、相当野暮ったい音楽に聞こえることもあるが、インバルの指揮・解釈の賜物か、特に第2楽章の緩徐楽章は、第3番以降の傑作群に比べると、完成度では劣っているのかも知れないが、ナイーブな魅力があり、とても美しいものだと感じた。

まだまだ聞き込めてはいないが、作曲家の比較的初期の作品、チャイコフスキーやドヴォルザークなどの交響曲の初期作はあまり聴いたことがないので、同様に楽しめるかも知れないというような予感がする。

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2009年6月11日 (木)

コレルリの合奏協奏曲集作品6全12曲 ピノック/イングリッシュ・コンサート

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トレバー・ピノック指揮(チェンバロ)、イングリッシュ・コンサート 1987年、1988年録音

久しぶりのディスク音楽記事。iTunesへのデータ取り込みが毎日の音楽生活の多くを占めていて、ゆっくり鑑賞することがないのが原因。以前は、購入して聴いたばかりのCDの感想を書き留めておこうとか、以前からの愛聴盤の紹介をしようとか、同曲異演の楽しみを語ろうとか言う動機で書くことが多かったが、最近は記録と整理が主目的になっているようで、少し本末転倒気味。

さて、バロック時代の器楽、コンチェルト・グロッソの創始者として名高いアルカンジェロ・コレルリ(1653-1713)のコンチェルティ・グロッシ(複数形は、最後のOがIに変化)作品6、全12曲の録音。

第8番ト短調が、「クリスマス・コンチェルト」として有名だが、作曲者が高名な割りにその他の曲をディスクで聴くのは初めて。非常に廉価で入手できたので、あいも変わらず、iTunesに取り込んで聴き始めた。

演奏は、1980年代のピリオド楽器によるバロック時代の楽曲演奏で大活躍したトレヴァー・ピノックとイングリッシュ・コンサートによるもの。何しろ、小学館のバッハ全集(Archivとの共同企画)の第14巻協奏曲、管弦楽曲のほとんどが彼らの演奏だったのだから、その凄さをおしてしるべしというところだろう。

コレルリの合奏協奏曲は、いわゆるコンチェルティーノ(独奏群ヴァイオリンとチェロ)とリピエーノ(伴奏群)の協奏形式の嚆矢だが、全12曲は様々なスタイルをとっているようだ。

楽章数も、第1番ニ長:7, 第2番ヘ長:4、第3番ハ短:5、第4番ニ長:4、第5番変ロ長:4、第6番ヘ長:5、第7番ニ長:5、第8番ト短(クリスマス協奏曲):6、第9番ヘ長:6(舞曲名のついた組曲風の構成)、第10番ハ長:6(第9と同じ)、第11番変ロ長:6(同前)、第12番ヘ長:5(同前)、というように4楽章から7楽章で、急緩急、緩急緩という順序も一定ではない。

(64トラック、2.1時間)

その意味で、もう少し後世のヴィヴァルディ、ヘンデル、バッハの協奏曲の次第に確立されていった3楽章のスタイルよりも多彩と言えるかも知れない。

まだ一曲一曲楽しんでいる段階だが、楽想的には、演奏スタイルも大きく寄与しているのだと感じるが、古くさいイメージを覚えることなく、むしろ新鮮な面白さを感じることが多い。ただ、必ずしも「個性的」な楽想とばかりとは言えず、単調さも感じることも否めない。それでも、このような音楽を聴くにつれ、音楽王国だったイタリアという「反音楽史」の主張もうなづける。

コレルリより少し後輩のヴィヴァルディが確立した独奏楽器と合奏による独奏協奏曲の成立の方が、協奏という意味では自然に成立するものような気がするのだが、音楽史も、複旋律による対位法から単旋律と和声へと考えようによっては単純化されてきた歴史があるので、必ずしも単純から複雑へという流れが自然というわけではないのかも知れない。Mた、J.S.バッハは、独奏楽器と合奏によるチェンバロ協奏曲を多く作曲しながらい、ブランデンブルク協奏曲では、多彩なコンチェルティーノとリピエーノによる合奏協奏曲の最後の輝きを現出させた。もちろんヘンデルの作品3と作品6も忘れることはできない。

以前取り上げたショーソンのコンセールは、ピアノとヴァイオリンのデュオがコンチェルティーノで弦楽四重奏曲がリピエーノとして書かれているもので、先祖 帰りではないが、この合奏協奏曲の形式を参考にしたものだろう(が演奏効果的にはコンチェルティーノとリピエノーノ対比はあまり明瞭ではない)し、古典派やロマン派の協奏交響曲(モーツァルト、ハイドンなど)、複数楽器のための協奏曲(ブラームスなど)も基本的な基本思考は別なのだろうが、外形 的には独奏群と合奏群の協奏と対立とが構成要素になっている点は共通のようだ。近代で最もこのアイデアを巧く取り入れた有名曲は、バルトークの管弦楽のた めの協奏曲だろうか。

2009年2月 1日 (日)

今日のリッピングは主にバルトーク

iTunes 8 の スマートプレイリストは大変便利で、自分が以前から実現したかった作曲家、ジャンル、演奏者、録音年などの情報を検索キーにして、自動的にリストを作成してくれるので、大変面白くてはまってしまっている。

今日は、金曜日から土曜日の朝に掛けての暴風雨もおさまり、朝から雲ひとつない天気だった。南の窓を開けると、今日から2月で立春も2月4日と間近なこともあり、春風のような暖かさだったが、北の窓を開けると一転して身を切るような強風が吹いており、同じ建物の南北で季節の差ができているようで驚いた。

長男のスキー合宿に備えて、先日の帰省の折に、雪国ならではの量販店の品揃えに助けられて非常にリーズナブルなスキーウェア一式を購入できたので、市内にある人工スキー場に出かけようかという話も出ていたが、朝からどうものんびりしてしまい、結局室内で一日過ごしてしまった。そんなわけで、私はリッピングに勤しんだ。

バルトークでは、ミシェル・ベロフの1970年代のEMIへの録音のピアノ曲集。バルトーク自作自演のコントラスツやラプソディ1番、ヴァイオリンソナタ2番。委嘱者クーセヴィツキーの指揮によるオケコン。ジュリアード四重奏団の2回目の録音(初のステレオ)で、4番が1枚目と2枚目のCDに分けて収録されたCDを巧くつながるように、番号順にリッピングしたりして過ごした。久々に4番の弦楽四重奏曲を通して聴いたが、すごい緊張感と解放感(カタルシス)のある曲だと思った。また、アルゲリッチとコワセヴィッチによる2台のピアノと打楽器のソナタもリッピングして聴いたが、こちらもすごい。ライナーの『弦チェレ』も恐るべき演奏だということを再認識した。ブロンフマンとサロネンのピアノ協奏曲も改めて聴きなおしている。

他に、パレストリーナのミサ曲集(プロ・カンティオーネ・アンティクア)や、アダム・フィッシャーのハイドン交響曲全集の取り込みも開始したが、まったく眠らせておいた音盤の多いのには我ながら呆れるし、こうして整理しておくと、つまみ聴きは多くなるが、私のスタイルのようなリスナーには相当利便性が高まるようだ。

2009年1月12日 (月)

パソコンでのリッピングの音質の変化、のようなもの

mp3に変換したデータは、原理的には圧縮データなので音質は劣化しているはずだ。しかし、ノートパソコンのイアフォンジャックからステレオイアフォンで実際に聴いてみると耳あたりがよくなり、いつもの古いポータブルCDプレーヤーで聴くよりも特に解像度が向上しているように感じるのが不思議だ。

音の鮮度というようなものは失われている感じで、少しベールが掛かったというか大人しい感じの音になっているのは否めないけれど、mp3の音質劣化ということが先入観としてあったので、結構意外だった。

これは、パソコン付属のDVD/CDドライブの読み取り精度が携帯CDプレーヤーや旧式の据え置きCDプレーヤーなどよりも優れているという要因もあるだろうし、また読み取り時のエラー補正もよく効くだろうし、また再生時にはHDDからのデータ読み出しになるため、通常のCDプレーヤーでの再生時よりも欠落する情報が少ないだろうことなどからもたらされるのかも知れないと思った。

以前、生意気にも「バルトークの耳の良さと、20kHz以上の高域音波をばっさり切り捨てるディジタル音楽再生、SACDのこと」を記事にしたことがあったが、圧縮音楽情報も実際に体験してみると、まったく捨てたものではないと、論より証拠で、驚いてしまった。

思い返せば、これは我が家の据え置きCDプレーヤ系の特徴かプリメインアンプのそれかはよく分からないが、最近はとんと使わなくなったカセットデッキにCDをダビングした方が、聞きやすい音質になったということが以前はよくあった。このあたりは、どのような理屈なのだろうか?

なお、昨日は、クルト・ザンデルリング指揮フィルハーモニア管によるベートーヴェンの交響曲全集をiTunesでデータ化した。リンクした自己記事でも触れたように、第1交響曲の扱いがとてもひどい詰め込み方になっているもので、とても安心して聴ける代物ではなかった。これをきちんと楽章順に整理してデータ化することにより、不愉快な思いをせずに聴けるようになった。narkejpさんのクーベリックのドヴォルザーク交響曲全集の記事と同じようにHDDへのコピーにはこのような利点もあることが実感できた。

据え置き型のHDDプレーヤーについては、以前調べたことがあったが、今はどうなっているのだろうか?(参考記事

2008年9月19日 (金)

『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』(伊東信宏著 中公新書1370)

以前から読みたかったこの本をようやく8月末に「書店で」購入でき、先日読了した。

USAに移住する前に訪米した折にシゲティとワシントンの国立図書館でデュオリサイタルを開き、その時の録音が現在CD化されて、ブダペスト音楽院のピアノ科教授バルトーク・Bのピアノの腕前を聴くことが出来るわけだが、コダーイ・Zとともに東欧の民謡研究を行ったということは彼の小伝にも必ず登場する話とはいえ、その詳細はほとんど知ることがなかった。この新書は、知っているようで知らない「民謡研究学者」としての面からバルトークの生涯に焦点を当てた本で、この書籍は吉田秀和賞を受賞しているという。

新書ということで、一般向けの記述であり紙数は限られているが大変中身の濃い本だった。オーストリア・ハンガリー二重帝国下でのバルトーク達の日常生活では、彼らはチェコのスメタナがそうだっように一般的にはドイツ語が使用され、バルトークが受けた音楽教育も、バッハ、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスが主だったのだという。(モーツァルト、シューベルトは少し軽視されていたらしい)。

その中で、民族意識、ナショナリズムに目覚めながら、さてハンガリーの音楽とは何かと求めたのが、民謡を研究するきっかけだったようだ。というのも、いわゆるハンガリー風、東欧風は平行5度の使用や、五音音階の使用によって、「それらしい」風を漂わせたいわゆるお土産品的な音楽が多く、真性な民族音楽というものが見出しがたく、またリストやブラームスのハンガリー風の音楽も都会化したジプシー音楽(ロマの音楽)が主要素であり、それに対してバルトークは極度に批判的だったという。

面白いエピソードとしては、ラヴェルがヴァイオリンとピアノ(後にオーケストラ)によるリスト風の『ツィガーヌ』を作曲したのに対して、バルトークがその後、ラプソディー第1番、第2番という「リスト的」なハンガリー狂詩曲のモデルに従ったかのような曲を作曲したことだ。

なお、バルトークとコダーイによるヒガシヨーロッパ(及び北アフリカ)の民族音楽の研究は、分類上の困難や、分類の恣意性(非科学性)などがつきまとい、膨大な民謡と歌詞の集積にも関らず、必ずしも学問的に体系だった業績にはなっておらず、音楽的にはそれほど高い評価を得られていないというのはこの本を読んでの印象なのだが、体系的にはそうだとしても、蒐集家、マニアとしてのバルトークの克明な記譜を見ると鳥肌が立つほどの驚きが感じられる。学問体系としては完熟しなかったのかも知れないが、バルトークの音楽には民族的、民俗的な素材が再び命を授かったかのように、そのシンメトリーや鏡像的な音楽構成の中で生き生きと活動しているというのが、素人である私なりのこの本を読んでの結論だろうか。

その他、面白いエピソードとしては、p.179 に日本の言語学者である徳永康元氏がブダペストに1940年代に留学しており、その従弟である柴田南雄氏に徳永氏が買い求めたバルトークの楽譜を送り、それを元にして柴田氏がバルトークの作品の詳細な分析を書いたというのがあった。音楽之友社の名曲解説全集のバルートークの弦楽四重奏曲などは柴田氏の解説だが、非常に簡潔なものなので、どこかでその有名な詳細な分析を読んで見たいものだと思わされた。

2008年7月31日 (木)

ベニー・グッドマンとブダペストQ、シゲティ、バルトーク、トスカニーニ

Goodman_bartok_szigeti_toscanini 昨夜は、職場の暑気払いで少々ビールの量が過ぎて、帰宅後、ヘルベルト・ケーゲルの『展覧会の絵』を聴き、相当ユニークな演奏だと思いながらうたた寝をしてしまい、目が覚めたら夜中の1時半で、結局ブログ記事も、いただいたコメントへの返事も書けずに終わってしまった。

今日は久しぶりに、音楽を聴き、ブログを読み、書いていられる。

帰途、その道を通るときには必ず立ち寄るブックオフがあり、そこのクラシック音楽のCDの品揃いはあまりよくないのだが、たまにあれっという珍盤があり、今日もそこで、表題の演奏者たちによる珍しいヒストリカル録音のCDが廉価で入手できた。

モーツァルトのクラリネット五重奏曲 1938年録音 グッドマンのクラリネット ブダペスト弦楽四重奏団(ヨーゼフ・ロイスマン、アレクサンダー・シュナイダー、ボリス・クロイト、ミッシャ・シュナイダー)によるもの。ブダペストQは、ノイエ・ザッハリヒカイトの影響か、非常にすっきりした解釈。グッドマンは崩すこともなく巧い。

2曲目は、バルトークがグッドマンに献呈したあの「コントラスツ」を、その当人グッドマンと、ヨーゼフ・シゲティ、ベーラ・バルトークが演奏したもの。1940年録音。比較的マイルドな解釈。

そして、3曲目は、トスカニーニとNBC響が アール・ワイルド Earl Wild というピアニストと珍しく?ガーシュインのラプソディー・イン・ブルーを演奏したもの。クラリネットパートにグッドマンが参加という形なのだろうか。1942年のライブ録音。このコンビによる強烈なスフォルツァンド(アクセント)のついた演奏なのだが、比較的に残響が多めに取られているため、音の鮮度はあまりないが、結構聞きやすい音楽になっている。演奏としてのメリハリは、これまでいくつか聴いたものの中で随一の録音だ。

CEDAR CD48047 という型番のCDで、すべて英語表記なので、おそらくUSA製だと思うが、いずれも聴き応えのある録音だった。

追記:検索をすると、ナクソスのミュージックライブラリでは、第1曲目を聴くことができるようだ。同じく2曲目も「バルトーク・アト・ザ・ピアノ」という組み物の中で聴ける。また、第3曲目もNMLには入っていないようだが、ネット上ではPDとして聴けるようだ。

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