夏休み直前に公開された映画だが、ようやく夏休み最終の土曜日に見に行ってきた。
(前売り券の画像)
ゼロ戦と堀辰雄と言えば、自分にとって小中学生の昔から興味のある対象だったので、あまりに壺に嵌り過ぎているような気がして、自分としてはむしろこの映画を敬遠する気分で、当初は自分だけロードショーでは見ずに、妻が子どもたちと見に行く予定だったのだが、妻の夏風邪で8月初めの予定が延期になり、その後子ども達の宿題の進み具合や、実家への帰省、妻の資格試験の受験勉強などが重なり、ようやく8月の最終日に私が子ども達を連れていくことになったのだった。
ジブリ映画を映画館で見るのは、横浜が舞台になった『コクリコ坂から』(2011年)以来だが、その前の『崖の上のポニョ』も印象深かった。『風の谷のナウシカ』(1984年)のロードショーを映画館で観て何か救われたような感じがしたのだが、その映画の監督が、高校生のときに熱中して初回放映を見たテレビアニメ『未来少年コナン』の監督だと知って以来の付き合いでもある。
さて、この映画公開が7月20日でもあり、10スクリーン以上もあるシネコンということもあり、さらに話題ホラー映画『貞子3D2』が8/30に公開されたばかりだったり、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』という一部に熱狂的なファンがいるアニメ映画の公開日だということもあったのか、12時からの回は意外なほど座席が空いていた。また、アニメーション映画ではあまり見かけない比較的年輩の観客の姿が目立った。
涙腺が弱くなっているせいで、ちょっとしたエピソードですぐハンカチが必要になった映画ではあった。ただ、「ナウシカ」のように浄化・カタルシス的に癒されたかと言えばそうではなく、いろいろ複雑な感慨をもたされた宮崎監督72歳の作品でもあった。
構成上は、二つのストーリー(堀辰雄の「小説」と、飛行機設計エンジニア堀越二郎の半生)の融合感はあまり良くなかったように感じられた。その意味では逆に二つの源泉を知らない方が素直に見られたのかも知れない。映画に先立った宮崎監督自身の原作漫画があるそうなので、それと見比べてみたいものだ。
その意味で大きな一本線のストーリーとしてではなく、部分部分のエピソードの方に強い印象を受けた。特に冒頭の関東大震災の描写は(音量の大きすぎる映画館のモノーラル!の音響設定とも相まって)迫力がありすぎだった。相模湾を震源とする地震の波が、小田原の町(?)から広がり、大正、昭和の日本の都市の瓦葺の低層木造家屋の美しい街並みが、地震の波によってのたうつように揺れる様は、ショッキングだった。地震の揺れのために蒸気機関車が急ブレーキをかけて緊急停車するシーン(二郎の故郷上州藤岡からすると、信越線・高崎線だろうか?)なども含めてこのようなデフォルメ的な動きの描写こそに、アニメーションの面目躍如があるように感じた。ただ、災害や強風の描写にはアニメ的な迫力があったが、飛行機による空中戦や爆撃のシーン(96式陸攻が空襲に赴くようなシーンはあったが)など戦争自体を描くシーンは意外にも少なかった。
さて、この映画の一つのテーマでもあるであろう「ゼロ戦」については、このブログでも以前とりあげたことがあった。
2005年2月22日 (火) 国立科学博物館の零式艦上戦闘機
(参考 坂井三郎について:松岡正剛の先夜千冊568夜「大空のサムライ」)
2006年7月14日 (金) 映画「トラトラトラ」
2010年の夏に、太平洋戦史を読んだ頃には、立て続けに大学時代に謦咳に接した故・池田清教授の『海軍と日本』(中公新書632)や、百田尚樹の『永遠のゼロ』、水木しげる『敗走記』、吉村昭『零式戦闘機』などをまとめて読んだのだった。
吉村昭のノン・フィクション的な小説である『零式戦闘機』での印象に残った記述、名古屋の三菱の工場から岐阜の各務原の試験飛行場まで、舗装されていない道路を延々と、人家の軒先をかすめながら牛車によって試作機が運搬される部分が、今回の映画でも二回も描かれていた。社会インフラも人々の暮らしも貧しく、非力な飛行機エンジン(『海賊になった男』の燃料のオクタン価の話題では、航空燃料も劣っていたという)を生かすための、防弾能力を割愛せざるを得ず、極限まで軽量さを求めた機体の開発、設計の末に生み出された零式艦上戦闘機、ゼロ戦。そして、それに先立ち、その対極でもある、戦艦大和と武蔵の大艦巨砲主義のちぐはぐさ。(世界一を目指すスーパーコンピュータの現代も、もしかもすれば、似たり寄ったりなのかも知れない。今でもどこかアンバランスな感じが拭えないのだ、わが国は。)
ところで、日本の戦争映画や、ドキュメンタリーを見たり、読んだりすると、米英との物量差も考えずに「負ける戦争」に無謀に突っ込んでいったことを批判することが多いのに気が付く。それでは勝てる見込みのある戦争ならどうだったのだろう、思わされることが多い。戦争それ自体の悪、不正義、を問題にすることは少ないように思う。
この作品中でも、ソ連スパイのリヒャルト・ゾルゲをモデルとしたと目される西洋人(ドイツ人?)が、「日本も破裂、ドイツも破裂」(?)というようなカタコトの日本語で、主人公の堀越二郎に向かって戦争の先行きの予測を述べるシーンがあったし、堀越らの高等教育を受け、海外視察(留学)も行い、英独の雑誌を購読するようなインテリ層でもあるエンジニアたちも、英米との戦争には懐疑的な感想を述べているのが描かれていた。そのようなシーンでそんなことがふと頭をよぎった。(ゾルゲ?がピアノの弾き語りで歌う「会議は踊る」からの「ただ一度だけ」。昔、NHKラジオのドイツ語会話で、今月の歌で掛かっていた歌だった。東西の歴史の諸層が複雑に絡み合った感がある。ドイツのユンカー社だとかも。)
(2'20"あたりからDas gibt's nur einmal のオリジナルが聴かれる)
要するに、「勝てる戦」ならよかったのだろうか?という疑問だ。
2011年8月25日 (木) 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)でも触れたのだが、「原発もあの戦争も、負けるまではメディアも庶民も賛成だったのではないか?」ということだ。支配層や一部のインテリ識者は、その危険性や不可能性を知っているのだが、庶民層である世間は、マスメディアや世論によるある種の集団催眠(生得的な条件反射=文化)に掛かったかのように、レミング的に、深層雪崩のように根こそぎ時局を動かしていくのかも知れない。 仮に、第二次大戦で枢軸国側が何らかの偶然の結果、勝利を収めていれば、そのような戦争遂行の「無謀さ」に対する、結果論的な反省はあまり行われなかっただろう、などと辛辣なことを思ってしまう。
さて、この映画は、堀辰雄の「風立ちぬ」がストーリーの下敷きになっているのだが、ヒロインの名前は節子ではなく、「菜穂子」であり、同じく堀の小説から取られている。姓の里見だが、これは作家の里見弴(さとみとん)から取られたように思われた。
里見弴 同じく小説家の有島武郎、画家の有島生馬は共に実兄。
姉の有島愛は旧三笠ホテル経営者の山本直良と結婚。指揮者で作曲家の山本直純は、その孫にあたる。また愛の息子の山本直正は、与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻の二女の与謝野七瀬と結婚した。俳優の森雅之は長兄・有島武郎の息子なので、甥にあたる。
堀辰雄の小説「風立ちぬ、美しい村」は、おそらく集英社文庫だったと思うが、中学生時代に父母のどちらか忘れたが、買ってきてくれた。当時は通読できなかったように思うし、その後も流し読み程度しかしなかった。その後、彼の小説に、フーガ(遁走曲)だの、カペーカルテットだのが登場して興味が湧き、追分の「記念館」を訪れ、カペー四重奏団のSPレコードがあるのを見て感激したりした。軽井沢の文人の中では、堀よりも立原道造の方が好きだったりもしたのだが。
菜穂子が結核の療養のため入院した富士見町のサナトリウムだが、その描写の前だったか後だったかの列車が深山の山峡の鉄橋を渡るシーンは、同じ八ヶ岳山麓だが富士見側とは反対にあたる小海線のこの橋梁と八ヶ岳のシーンではなかったろうか?(写真-5 小海線 撮影年:昭和46年 撮影場所:清里-野辺山)
結核、労咳が、不治の病だった時代。若くして、ゆっくりとした死と向かい合わざるを得なかった人々。軽井沢がトーマス・マンの「魔の山」に擬せられるが、富士見のサナトリウムは、喧噪とは隔絶された静かさの中にあったようだ。真冬の零下20度にもなるような戸外で、寝袋にくるまって結核患者の人たちは過ごしていたのだろうか?印象的でありショッキングな描写だった。(近年「治療不可能結核」(薬物耐性結核)が登場してきているらしい。)
嫌煙派から批判のあったタバコのシーンは、確かに多かった。ヘビースモーカーが多かった時代であり、文学者や研究者などはタバコとともにあったようなイメージがある。その時代のアイテムとしては欠かせないものだろう。嫌煙派の偏狭過ぎる批判は、「痛い」。
軽井沢のホテルで、「ゾルゲ」がぱくついていたクレソンだが、故郷信州の高冷地では、「台湾せり」と称した。日本の在来種のセリとは異なる外来植物だろうが、千曲川源流地帯の清流のほとりに自生していたものだった。生で食べるよりも、おひたしにして食べることが多かった。あの爽やかな味は子ども時代ながらも忘れがたい。もう源流地帯も農薬の心配もあり、簡単に食べることはできないだろうが。
風景描写では、夏の軽井沢の高原の透明な空気感、木陰の羊歯と水流の様子など、ジブリ一流の風景画としての魅力が十分に詰まっていたのが印象的だった。
声優では、論議を呼んだアニメーション監督の庵野秀明の起用は、「トトロ」での父親役の糸井重里や、「耳をすませば」でのやはり父親役の立花隆に比べれば、「エヴァ」の監督だけのことはあり、ただの素人的な棒読みではなく、演劇的な劇的な要素も多少含まれ、それほど違和感は無かった。しかし、ロセッティの「風」の詩の朗読などは少々つらいものがあった。
ヒロイン菜穂子役の瀧本美織は、ソニー生命のCMや朝ドラ「てっぱん」の頃から爽やかな美声で印象があったが、陰影のある役柄をうまく演じていたように思った。個人的に惜しむらくは、「菜穂子」のアニメーションとしての映像キャラクターが多面的なものを含むからなのか、同一人物には見えないような、一貫性がないように感じられるところがあったことだ。リアリズムよりも、主人公やヒロインの心象と見ればいいのかも知れないけれど。
なお、ポスター等で使われている主翼がW字型の飛行機のシルエットは、ゼロ戦の前に堀越たちが設計した九試単座戦闘機 とのこと。
そして、今日9月2日に、ジブリの社長がベネチア映画祭での記者会見で、宮崎駿氏の長編映画からの映画監督引退を発表したニュースが伝わってきた。宮崎監督と長年コンビを組んできた鈴木敏夫プロデューサーが、「この映画は宮崎の遺言」と語っていたようだが、それに呼応するものだろうか?
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