カテゴリー「ディスク音楽06 オペラ」の48件の記事

2014年9月 2日 (火)

小学館 モーツァルト全集のCDを夏の帰省時に持ち帰った

初秋を知らせてはくれるが、少々煩いアオマツムシが樹上で鳴き始めた。熱帯性のデング熱の感染が日本でも確認されたことがニュースになっているが、同じく熱帯性のアオマツムシはすっかり亜熱帯の南関東の風物詩になってしまっている。

1991年のモーツァルト没後200周年を記念して発刊された小学館のモーツァルト全集15巻+別巻(CD190枚組)。オランダのPhilips社のCDによる Complete Mozart Edition (こちらは180枚組。おそらく小学館の10枚はモーツァルと以外の作曲家の作品10枚分が多いのだろう)をベースにして、モーツァルト学者の海老澤敏氏を中心とした著者陣が生涯、作品論、18世紀の文化・世相などを記述・論述した浩瀚な書籍が全16巻にも上るもので、各冊が美麗なハード函の中に納められている。CDは最大4枚入りの通常のCDケース2個が薄目のカートンに入り、そのカートンが縦置きで2個ずつ(1函にケース4個で、CD最大16枚収納)が書籍に並んで収納できるようになっていて、その書籍とCDを同梱した函の厚みが各巻10cmほどある。すべて横に並べると横幅が160cmにもならんとする。

就職してからある程度経験を積んだ年齢にもなり、全巻予約すれば、分売よりも数万円も安く買えるというので、数年の刊行期間の間に転勤になったときのことも書店で相談に載ってもらい(ただ、今思えば覚書などは交わさなかった)、一括払いで購入したものだった。当時はまだ独身寮生活だったので、それなりに自由になる金銭があったので、このようなまさに言葉通り、趣味のための贅沢な買い物ができたのだが、結婚後や育児期間中では無理だっただろう。ただ、別巻(モーツァルトとその周辺)は、全巻完結後の分売だったはずで、無理して買ったような記憶がある。(結婚後に同じく発売された小学館のバッハ全集は、管弦楽・協奏曲の巻を妻がプレゼントしてくれたのだが、さすがに他の巻は買えなかったし、講談社のベートーヴェン全集はカタログを見ただけだった。)

それ以来、2000年に現在の住居に引っ越す際に、学生時代から独身時代にかけての多くの書籍類と一緒に実家に置かせてもらったまま、時折帰省したときにつまみ聞きをしただけで、「モーツァルト」本を読んだ際に、手持ちのCDコレクションにその曲が無いと、全集があれば聴けるのになどと思うことがままあった。

既にiTunesでHDDに取り込んでの音楽鑑賞に慣れてから10年近く経過していたこともあり、以前にはPCとHDDを持ち帰り、時間のあるときに実家に行ってPCリッピングをしようかというアイデアがあった。今回はクルマで帰省するので、書籍ごと15冊全て持ち帰ることも考えたが、ただでさえ物が溢れていて片付かない集合住宅では置く場所も無い。せっせとテレビ番組をBDにダビングしているが、その時に使っているBDを入れる書籍型のケースのことを思い浮かび、96枚入りを2冊購入し、すべてCDケースから移し替えて持ち帰ってきた。

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現在、48枚をiTunesでリッピングしたところ。

併せて、実家に置いてあったオカールの「モーツァルト」、同「比類なきモーツァルト」、井上太郎の「モーツァルトのいる部屋」、「わが友モーツァルト」を持ち帰った。A.アイシュタインと海老澤敏の似た装丁の大冊2冊は置いてきた。

オカールの2冊もちょうど1991年頃に買ったもので、当時は少々小難しく、ざっと読んだだけだったが、今回改めて読み直してみると、さすがに読み応えがある。とはいえ、「比類なき・・・」は独特の用語(フランス語の原書で使われている重要な概念を表す術語に、日本語として対応するこなれた言葉が無かったのかも知れない)が多く用いられ、まだ隔靴掻痒的な感じは残った。

さて、「全集」の詳細は以下の通り。

「全集」でもなければ聴く機会のほとんどない、第2巻、第3巻は今のところ、ことに興味をそそられ面白いが、古くはブレンデルとマリナーのピアノ協奏曲全集を購入(これはこの「全集」を購入後、友人にプレゼントした)して楽しんだことのあるウィーン時代初期(1782-1784年)の11番から19番の協奏曲(K.413-K.459) が懐かしい。特に11番から16番は久しぶりに聴いた。モーツァルトが、「音楽の玄人にも素人にもその人なりに楽しめる」ように書いたと手紙で父に知らせ、自作自演でウィーンで大人気を博した曲だが、20年ほど経過した後で、久しぶりに聴いてもとても楽しい。

(CD1~12) /モーツァルト全集1 交響曲
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110019

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(CD13~24) /モーツァルト全集2 セレナード、ディヴェルティメント
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110027

(CD25~36) /モーツァルト全集3 管楽セレナード、管楽ディヴェルティメント、舞曲
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110035

(CD37~48) /モーツァルト全集4 ピアノ協奏曲
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110043

(CD49~60) /モーツァルト全集5 ヴァイオリン協奏曲、管楽のための協奏曲、管楽のための室内楽曲
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110051

(CD61~73) /モーツァルト全集6 弦楽のための室内楽曲
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:409611006X

(CD74~85) /モーツァルト全集7 ピアノをともなう室内楽曲、ヴァイオリン・ソナタ
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110078

(CD86~97) /モーツァルト全集8 ピアノ曲
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110086

(CD98~108) /モーツァルト全集9 宗教音楽〈1〉
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110094

(CD109~119) /モーツァルト全集10 宗教音楽〈2〉
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110108

(CD120~130) /モーツァルト全集11 オペラ〈1〉
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110116

(CD131~141) /モーツァルト全集12 オペラ〈2〉
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110124

(CD142~153) /モーツァルト全集13 オペラ〈3〉
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110132

(CD154~165) /モーツァルト全集14 オペラ〈4〉
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110140

(CD166~178) /モーツァルト全集15 コンサート・アリア、歌曲他
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110159

(CD179~190) /モーツァルト全集 別巻 モーツァルトとその周辺
著者名:海老沢敏 監修:エリック・スミス
出版社:小学館  ISBN:4096110167

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2014/9/22追記
The Compact Complete Mozart Edition (デッカのサイト)を発見した。

各トラックデータに録音データ、演奏者等が詳しく掲載されている、優れもの。

2013年1月11日 (金)

『トリスタンとイゾルデ』にはなかなか馴染めないが

現在、音盤(CD)としては、フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管のものと、カルロス・クライバー指揮シュターツカペレ・ドレスデンのものが手元にあるのだが、十分聴きこめているとは言えない。 特に後者は、クライバーの逝去時に購入したものなので、相当時間が経過している。

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Tristan_und_isolde_librettoさらにさかのぼれば、学生時代に、FM放送で年末にバイロイト音楽祭を聴いていたころからの付き合いで、「トリスタンとイゾルデ」の対訳リブレットまで購入していたので、相当の長い付き合いにはなる。

楽曲としては前奏曲と愛の死は、多くのワーグナー管弦楽名曲集にはほとんど収録されているので、馴染みになっているが、楽劇全体としてはまだじっくりと腰を落ち着けて味わったという実感が得られていない。

さて、以前にもケルト関連でこのブログで書いたかも知れないが、ワーグナー(ヴァーグナー)が題材とした神話・伝説の類は、ゲルマン神話だけではないようだ。

例の「アーサー王」伝説の源流はケルト系のものだとされているが、以前購入して冒頭を何度か読みながらなかなか読み進めなかった 井村君江の『アーサー王ロマンス』(ちくま文庫)を、最近取り出してきて再読してみた。この本にこの「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」の項目があることは知っていたが、ようやく「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」が登場する部分まで読むことができた。子どもでも読める易しい文体で書いてあるのだが、騎士や王、王女などが沢山登場するので、把握には結構苦労する。(なお、トリビアながら、トリスタンとは「悲しみ」という意味だという。あの ゲオンの言うモーツァルトのtristesse allante のトリステスと同じ語源なのだろう。)

この井村の本に詳しいが、アーサー王伝説は、本国である大ブリテン島のみならず、大陸では特にフランスでもさまざまな伝承が付加され、ドイツでも受容されたとのことで、西ヨーロッパ圏では共通的な伝説・説話になっているもののようだ。現代の西欧人がどのようにどの程度受容しているのかは知らないが、教養のあるヨーロッパ人にとってはおそらく基本的な知識ではあるのだと想像する。

自分があまり知らないだけではないかとも思うが、アーサー王伝説とワーグナーの関連については、私の父もつい近年欧米の子供向けに書かれたアーサー王伝説の翻訳本を古本で入手し読み始めてそのことに気付いたと言っているように、一般には割と意識されていなかったのかも知れない。私たちが知らなかっただけだとは多いに思いいたるふしはあるが、それでも音楽書を相当読み込んではいるので、この関連の重要性は知る人ぞ知るだったのではあるまいか、などとも自分を慰藉してみたりもする。ワーグナーの音楽がゲルマン神話をもとにして、ゲルマン民族主義を高らかに歌い上げたというような偏った知識はあっても、このヨーロッパの中世以来の有力な説話であるアーサー王伝説との関連について強調した読みものをあまり目にしたことがないように感じている。(追記:上記のオペラ対訳シリーズの冒頭の高木卓氏による解説には、このトリスタン説話がフランスのブルターニュ地方に淵源を持ち、中世のドイツの詩人ゴットフリート・フォン・シュトラスブルグが叙事詩にしたことは述べられているが、アーサー王説話の一節に入っていることは述べられていなかった。昭和38年第1刷、昭和58年第8刷。追記:ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ

Wagner_critical_biography今年は、ワーグナー、ヴェルディの生誕200年であり、日本でもワーグナーの音楽は盛んにやられるだろうが、解説書には少なからず触れてはあるものの、トリスタンとイゾルデの悲恋、パルジファルの聖杯探究が、もとはアーサー王伝説のエピソードに含まれたものであり、そのドイツ語訳されたものをワーグナーが自ら枝葉末節を整理した形で、戯曲化し、それを楽劇化したということは知っておくべきだろうと思う。これは自戒だ。

おそらく、ヨーロッパの一般の人々でも、おとぎ話・説話として共通知識であるこれらの物語を念頭におきながら、ワーグナーによる「近代化」や変容の結果である楽劇を享受しているのだと思うが、そのような基本的なバックボーン無しに近代的な視点から近代人のワーグナーがあのような矛盾を抱える「神話」を創作したとみなしてしまうと、「トリスタン」や「パルジファル」は容易に鑑賞できないのではあるまいか?この部分が私にとっては躓きの石だった。

さらに、「パルジファル」の聖杯探究も、キリスト教神秘主義に関わるとされることもあるようだが、実際は西ヨーロッパにおけるキリスト教受容での特殊性(女神崇拝からの聖母マリア崇拝などや多神教的な聖人崇拝)に含まれる偶像崇拝に基づく聖遺物崇拝も思い起こされれてもよいのではなかろうか?

このような理解や方向性が正しいとは言えないけれど、自分なりに納得することで、不可思議で理解しがたい戯曲でもある「トリスタン」や「パルジファル」が、少しは鑑賞の視野に入ってくるようになってきたように感じている。

そのこと自体ある民族や国民の中では当たり前すぎてあまり表だって語られないが、日本人も当然含まれるが、諸民族・諸国民には、他の民族・国民はあまり知らない何か重要な共通神話(共同幻想のようなもの)がバックボーンとしてあるのかも知れないなどとも、考えたりした。

追記:「ローエングリン」は、パルジファル(パーシヴァル)の息子とされているので、これもゲルマン神話ではなく、アーサー王伝説につながるもののようだ。

ネットで、「アーサー王伝説 ワーグナー」で検索すると多くの情報がヒットする。

http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/text/text3.htm

私のような「ゲルマン神話」だとの思い込みは、少々気恥ずかしいことだった。

2013年1月 4日 (金)

年末に届いた "LIVING STEREO 60 CD COLLECTION"

2010年に発売され人気だった表題のボックスセット(アメリカ版)は、完売になっていたが、ヨーロッパ版が再発されたということをHMVで知り、昨年年末に注文しておいたのだが、数日で届いた。旧RCA(ビクター)の初期のステレオ録音の集成で、現在はソニーミュージックの一レーベルとなっていて、そこからの発売になっている。ミュンシュ/ボストン響、ライナー/シカゴ響、ハイフェッツ、ルービンシュタイン、ヴァン・クライバーンなどが主要演奏家で、まさに米国の黄金時代を象徴する録音群だと思う。彼らの人気レパートリーが主だが、意外にもラインスドルフによるイタリア・オペラのラ・ボエーム、マダム・バタフライ、トゥーランドット、それにプレヴィターリという指揮者のラ・トラヴィアータ(椿姫)が含まれていてこれが60枚の内の8枚を占めている。(と書いたが、当時のアメリカ出身の人気歌手、レオンタイン・プライス、アンナ・モッフォ、テノールのリチャード・タッカーなどの出演のためRCAがローマに進出して録音したもののようだ。メトではなくローマで1950年代、60年代に録音したところに時代を感じる。なお、トゥーランドットは、ニルソン、テバルディ、ビョルリンクなど凄い顔ぶれの歌手揃い。)

このシリーズは、ステレオ録音最初期の録音なのだが、リマスタリングが成功しているのか、聴き慣れたライナーの「オケコン」「弦チェレ」も1980年代発売の日本製の同じ音源のCDよりも相当音質が改善され、セルの録音に比べて粗さを感じていたライナーのそれが、今回のCDでは勝るとも劣らぬ緻密な音楽・演奏に聞こえるようになっているので、全体的に聴きやすくなったのは確かだろう。

すでに60年も前の録音だが、レコード録音できる音楽家がスーパー音楽家だった時代の労力と資金がたっぷり掛けられた時代の録音でもある。これはお買い得だと思う。

余談だが、この60枚の並び順には、どのような規則性があるのだろうか?少し考えたが分からない。

2012年6月 9日 (土)

ヴェルディ オペラ『アイーダ』(抜粋) プライス, ショルティ/ローマ歌劇場

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Giuseppe Verdi (1813-1901) Aida

Georg Solti / Orchestra e Coro del Teatro dell' Opera de Roma,

Price(S), Vickers(T), Gorr(MS), etc.


配役:アイーダ/レオンタイン・プライス(S)、ラダメス/ヴィッカーズ(T)、アムネリス/ゴール(MS)、アモナズロ/メリル(Br)、ランフィス/トッツィ(B)、エジプト王/クラバッシ(B)

Preludio 前奏曲   4:05
Act1 - RAMFIS  "Si core voce che l'Etiope" 「そうじゃ、エチオピアがまたも戦いを」 1:41
Act1 - RADAMÈS "Se quel guerrier io fossi !"- "Celeste Aida" もしその将軍が私なら ! - 清きアイーダ 4:39
Act1 - AIDA "Ritorna vincitor !" 「勝ちて帰れ」 7:33
Act2 - POPOLO "Gloria all' Egitto, ed Iside" (凱旋の場) 「エジプトとイシスの神に栄えあれ」 3:17
Act2 - Marcia - Ballabile - POPOLO"Vieni, o guerriero vincice" 行進曲 - バレエ音楽 - 「きたれ ! 凱旋将軍よ」 8:25
Act3 - AIDA "Qui Radames verra! O patria mia" 「ここにラダメスはくるはずだわ ! - ああわが故郷」 7:18
Act3 - AMNASRO & AIDA "Ciel! mio padre! Rivedro le foreste imbalasamate" 「まあ、お父様 ! - もう一度、あのかぐわしい森や」 8:03
Act3 - RADAMES & AIDA "Pur ti riveggo, mia dolce Aida" (ナイルの二重唱) 「やっとあえたね、いとしいアイーダ」 3:01
Act4 - AMNERIS "Gia i sacerdoti adunansi" 「あなたの運命を左右する」 6:53
Act4 - RADAMES & AIDA "La fatal pietra sovra me si chiuse" - "Presago il core" 「運命の石が私の上で閉じられている」 - 「あなたの刑を虫が知らせてくれました」 6:49
Act4 - AIDA & RADAMES "O terra, addio" 「さようなら、この世」 5:41 

ゲオルク・ショルティの指揮で、珍しくローマ歌劇場のオーケストラと合唱団との録音。録音は1961年。米国グラミー賞を受賞しているという。(ショルティはグラミー賞の常連だったはずだ。)

2010年3月ごろブックオフで見かけて入門用にいいと思い、廉価で購入した抜粋盤だが、苦手意識がわざわいしてこれまで通して聴いたことが無かった。

残念ながらオペラ対訳プロジェクト「アイーダ」には、日本語訳はまだ無い。

第1幕
第2幕第1場
第2幕第2場
第3幕
第4幕

録音は古いけれど、デッカ録音だけあり音質は明快でビリつきや歪感も少ない。オペラは、一部の例外を除いて苦手分野なのだが、耳にする機会の多い「凱旋の場」はとても面白く聴けた。よく知っている部分は、言葉は気にならない。バルトークの音楽同様、ある程度は慣れの問題だろうか?

気象庁は、「関東甲信地方、北陸地方、東北地方南部は梅雨入りしたとみられる」と発表した。1か月以上続く雨の季節。毎年早く過ぎてほしいと思いながら過ごしているが、梅雨ならではの楽しみを見つけなければ。そういう意味で、イタリアオペラのスカッとしたベルカントの歌声は梅雨の憂鬱さを吹き飛ばす効果があるかも知れない。

2012年5月19日 (土)

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの逝去を悼む

今朝の新聞を読んでいた妻が、「ディスカウが亡くなった」と知らせてくれた。86歳だったという。フィッシャー=ディースカウの妻で同じく歌手だったユリア・ヴァラディによれば「安らかに永眠した」とのことだ。

F=ディースカウの歌唱を、生で聞く機会は無く、膨大な録音もたまたま縁があって入手したごく一部しか聞いていない。

ドイツリートではこのブログでも記事にしたエッシェンバッハのピアノによるシューマンの歌曲集『詩人の恋』『リーダークライス』『ミルテの花』の歌唱が一番印象に残っている。1976年の録音で、ディースカウ50歳ごろの歌唱だが、今聞き直しても高音の伸びが素晴らしく、声にも潤いがあり、知的で慎重な印象の強いディースカウにしては熱唱の部類に入り、思わず胸が熱くなる瞬間がある。

オペラでは、ベームの指揮、ポネル演出の『フィガロの結婚』映画でのアルマヴィーヴァ伯爵の演技と歌唱は見事だし、1954年のフリッチャイの『魔笛』での30代の若きディースカウのパパゲーノもユニークだった。

リストを書き出していて思い出したが、バーンスタインとウィーンフィルのマーラーの「大地の歌」の録音で、アルトで歌われることが多いパートをバリトンの彼が歌ったものも印象が強い。

宗教音楽ではリヒター指揮のバッハの受難曲とカンタータでも多く録音を残しているが、『マタイ』のバスのレチタティーヴォとアリア "Mache dich, mein Herze, rein" を聞き、その歌唱を偲びたい。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ関係の記事

2006年4月20日 (木) シューマン 歌曲集「詩人の恋」ほか フィッシャー=ディースカウ、エッシェンバッハ

2007年1月12日 (金) シューベルト『冬の旅』 フィッシャー=ディースカウ、デムス

2012年3月 7日 (水) 以前音質的に不満だった音源を聴きなおしてみて(5) アンサンブル、声楽編

2006年11月 8日 (水) シューベルト 『白鳥の歌』 シュライアー&シフ

2008年4月26日 (土) モーツァルト 『フィガロの結婚』 3種類のベーム指揮を聴く

2007年8月 8日 (水) モーツァルト 生誕200年記念の名録音による4大オペラ全曲集 10CDボックスセット

2004年12月13日 (月) ハイドン 天地創造

2006年5月18日 (木) 連休の収穫6 マーラー「大地の歌」バーンスタイン/VPO ミュージックカセット

2007年6月 2日 (土) エルンスト・ヘフリガーを偲んでバッハの受難曲を聴く(マタイ受難曲)

2008年7月 5日 (土) 『四季』を題材にした曲集より『夏』の音楽 (ハイドンの「四季」)

☆白水社/ドイツグラモフォン シューベルト歌曲集 
HP音楽の茶の間のページより。ディースカウの著書(『シューベルトの歌曲をたどって』だろうか?)にLP10枚ほどがセットになったもの。1970年代に父が購入。

追記:2012年7月3日 6月22日に親戚の葬儀で帰省し、翌日の土曜日に『シューベルト 歌曲の世界』(白水社)を写真におさめてきた。『シューベルトの歌曲をたどって』は、収録されていなかった。その代わりといってはなんだが、DFD著の『シューベルトの人物像』、『わが生涯を語る』、ジェラルド・ムーア著の『フィッシャー=ディースカウとシューベルト歌曲』といった文章が収録されていた。

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2011年10月16日 (日)

モーツァルト 没後220年 (ショルティの「魔笛」1991年ザルツブルクを見て)

今日未明(などと書き出すと、ニュースの原稿のようになるが)放送された、NHKBSのプレミアムシアターで、ヴィーン・フィルハーモニカーによる今年のシェーンブルン宮殿での野外コンサート(ゲルギエフ指揮で、リストの前奏曲、ムスルグスキー=ラヴェルの展覧会の絵など)に続いて(このような野外コンサートはいつごろから開催されているのだろうか?)、1991年のザルツブルク音楽祭の公演からゲオルク・ショルティ指揮ヴィーン・フィルハーモニカーによるモーツァルトのジングシュピール「魔笛」が再放送された。

1991年のモーツァルト没後200年の記念年もついこの間のことのように思っていたが、そこからすでに20年も経過してしまっていたというのを改めて実感した。こちらも馬齢を重ねるわけだ。いつの間にやら今年は220年目なのだ。

すでにショルティも鬼籍に入ってしまった。

あの1991年の時のモーツァルトをヴィーンで振れる大物指揮者は、ショルティくらいになっていたのだろう。今思えば、ヴィーンの聖シュテファン大聖堂でのモーツァルト追悼ミサでもショルティが指揮をしたのだった。

ショルティの指揮ぶりは相変わらずのユニークな腕の振りだったが、オーケストラが奏でる音楽は四角四面の堅苦しいものではなく、柔らかなニュアンスが湛えられたいた。ピアノの達者なショルティが、パパゲーノの鈴(グロッケンシュピール)の音楽を、指揮台のそばに置いた鍵盤付きのグロッケンシュピール?で弾くのも、愉快なものだった。

2011年10月13日 (木)

ヴァーグナー 『ニーベルングの指環』オーケストラ・ハイライト マゼール/BPO

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ヴァーグナー 

言葉(歌詞/台詞)を伴わない『指環』

ロリン・マゼール指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  1987年録音

先日のTELARC録音のリストには入れなかったが、これは珍しくベルリン・フィルをテラークが録音したもの。

以前、セルとクリーヴランド管によるヴァーグナーの『指環』曲集を取り上げたときに、各曲のブリッジ的なパッセージ云々と書いたが、それは後に誤りに気付いた。

こちらの盤の方にマゼールが作曲した接続部(ブリッジ)が収録され、約1.1時間の長大な連作交響詩のようなオーケストラ曲になっているのだった。

1. Das Rheingold - Thus, We Begin In The Greenish Twilight Of The Rhine 5:24
2. Das Rheingold - Entrance Of The Gods Into Valhalla 2:05
3. Das Rheingold - Fall Amongst Hammering Dwarves Smithying Away 2:23
4. Das Rheingold - Ride Donner's Thunderbolt, Et.  1:40
5. Die Walküre - Act 1: In The Sound Code, We See His Loving Gaze 3:21
6. Die Walküre - Act 1: Their Flight   0:43
7. Die Walküre - Act 2: Wotan's Rage  2:32
8. Die Walküre - Act 3: Ride Of The Valkyries 3:10
9. Die Walküre - Act 3: Wotan's Farewell & Magic Fire Music  5:32
10.Siegfried - Act 1: Mime's Fright  1:22 
11.Siegfried - Act 1: Siegfried's Forging Of The Magic Sword 0:51
12.Siegfried - Act 1: His Wanderings Through The Forest   2:04 
13.Siegfried - Act 1: Slaying Of The Dragon  1:00
14.Siegfried - Act 1: The Dragon's Lament  0:58
15.Götterdämmerung - Act 3: Siegfried's Death & Funeral Music 7:06
16.Götterdämmerung - Act 1: Day Breaking Around Siegfried's & Brunnhilde's Passion    5:06
17.Götterdämmerung - Act 1: Dawn & Siegfried's Rhine Journey 1:45
18.Götterdämmerung - Act 2: Hagen's Call To His Clan  4:01
19.Götterdämmerung - Act 2: Siegfried & The Rhinemaidens  9:08
20.Götterdämmerung - Act 3: Immolation Scene  9:35

2011年7月 6日 (水)

生誕125周年記念 Wilhelm Furtwängler The Great EMI Recordings

R0011703 フルトヴェングラーの音盤は、LP期にはベートーヴェンの「英雄」、「第5」(ヴィーンフィル)、「第9」(バイロイト)を購入して聴いた。CDになってからは、第5(ベルリンフィル 1947)、大フーガ(同)、第9(バイロイト、Orfeoのバイロイト)、ブラームスの第1、ハイドン変奏曲(ヴィーンフィル)を購入して聴いた程度で、エアチェックではブラームスの第4に感心したけれど、演奏の猛烈さに比べて音質が団子状で高域の伸びがないのが隔靴掻痒でもどかしく、どちらかと言えば敬遠気味だった。

今週の日曜日に、用事で横浜駅に行った帰りに、久しぶりにモアーズのタワーレコードに立ち寄ってみた。ここは数年来クラシック音楽のスペースを縮小することなく、また並び替えもしていないため、目当てのCDを探しやすい。今回はブラーボを長男にもらって帰ろうか程度で、これまで所有していない音盤でもあればと思っていたのだが、タイトルのフルトヴェングラー生誕125周年という少々中途半端な記念年の21枚組ボックスが目にとまった。

上記の印象から古典回帰で、懐古趣味的かなとは思ったけれど、FM放送などでは触れたもののベートーヴェンの交響曲、ブラームスの交響曲のそれぞれ全曲は未聴のものがあり、フィデリオやトリスタンも聴いたことがなかったし、上記の交響曲が新リマスターということもあり、5000円ちょっととお買い得だったこともあり、購入した。

すでに何枚か聴いてみたが、リマスターの効果は出ているようで、まずは楽器が団子にならずに分離しており、それなりに高域も伸び、これまでに比べてぐっと聴きやすい音質になっている。解像度が上がったことで、これまでマスクされていたキズがあらわになるのではないかという懸念もあったが、逆に各パートの充実が聴きとれるようになっている。

毎日すこしずつ聴いているが、新たな発見があり、とても楽しめている。

2010年3月26日 (金)

ヴァーグナー 序曲、前奏曲集 小澤征爾/ベルリンフィル

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Der fliegende Hollaender Overture 歌劇 さまよえるオランダ人 序曲 11:21
Lohengrin Prelude to Act Ⅰ歌劇 ローエングリン 第1幕への前奏曲 10:49
Die Meistersinger von Nuernberg Prelude 楽劇 ニュルンベルクのマイスタージンガー 第1幕への前奏曲 10:42
Tannhaeuser Overture 歌劇 タンホイザー 序曲 15:12
Tristan und Isolde Prelude 楽劇 トリスタンとイゾルデ 前奏曲 10:23
Tristan und Isolde Liebestod 楽劇 トリスタンとイゾルデ 愛の死 7:25

Seiji Ozawa /  Berlin Philharmonic Orchestra〔1989〕

今は昔の歴史と共に死す - Wein, Weib und Gesang で、バイロイト音楽祭の監督ヴォルフガング・ヴァーグナーの逝去を知った。ヴァーグナーの孫ということで、それは即ち、フランツ・リストの娘コジマの孫であり、フランツ・リストにとっての曾孫にあたる人物ということになるようだ。リストの人気曲についてちょうどトリビアルな話題に淫していた頃だったので、リストの曾孫ということに、なるほどと思った次第だ。

さて、日本を代表する指揮者小澤征爾氏は現在病気療養中だが、今から約20年ほど前に、ヴァーグナーの有名な序曲、前奏曲集をベルリンのフィルハーモニーによって録音したCDがこれだ。

日本人とバイロイトといえば、数年前、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の常任である大植英次氏が抜擢されて「トリスタンとイゾルデ」を指揮したことが特筆されるが、飯守泰次郎氏が長らくバイロイトでシュタインなどのアシスタントを務めていたことも重要な貢献だと思われる。

とにかく長丁場のバイロイトの歌劇、楽劇は、ゲルマン民族の体力、忍耐力を思い知らされ、東洋人である日本人にもバイロイト詣でをするほどのファンは多いようだが、残念ながら私はその片隅にもいられないほどヴァーグナーの楽劇には縁遠い。

小澤征爾の指揮するベルリンフィルのこれらの歌劇、楽劇の序曲、前奏曲などは大変立派で丁寧な演奏であり、ベルリンフィルも好調のようだ。

縁遠い人間が語るべきことではないかも知れないが、過日のリヒャルト・シュトラウスのあざといまでの自己顕示欲的な剥き出しの天才性の発露において、カラヤンの完璧主義と疲れを知らぬ体力に圧倒されたのと同様に、そのようなあざとさを避けた謙譲でマイルドなこの小澤の解釈、指揮は聴き疲れはしないものの、彼我の間にある差を実感させるものにもなっているように感じられる。小澤征爾氏のキャラクターでさえ、一般の日本人にとっては十分に自己表現に巧みで得手のようには思うのだが、その彼にして、ねじ伏せ、鷲掴みにするような強烈さは避けているのだろうか。

2010年3月16日 (火)

モーツァルト『フィガロの結婚』をつまみ聴き 文化の相互理解について考えた

昨年の1月頃に開始し、ちょうど今頃から熱中していたのだが、途中12月頃に中断していたiTunesへのCDの取り込みを1月末ごろから再開した。

最近、ようやくモーツァルトのオペラのCDを取り込み終えた。Gracenoteのトラック名が不完全なので取り込み時に訂正が面倒なため、後回しにしていたものだ。取り込んだのは、

マゼールの『ドン・ジョヴァンニ』(パリ・オペラ座)

 スイトナーの『魔笛』(SKD)

 ベームの『フィガロの結婚』(ベルリン・ドイツオペラ)

なお、モーツァルト生誕200年(1956年)記念録音の10枚組みは既に取り込み済み。

まだ、『フィガロの結婚』ヴァルター(ワルター)指揮ヴィーン国立歌劇場(1937年ザルツブルクライヴ)が残ってはいる。

さて、このところ、耳なじみのない曲に挑戦したりしているので、久しぶりにおなじみの『フィガロ』のアリアを頭だしして何曲かをつまみ聴きしてみたところ、じーんと感動してしまった。特にケルビーノの2曲の青春のアリア。若かった頃には、親が懐メロを愛好するのが不思議だったが、それと同じような感覚を自分も持つようになったらしい。

それにしても、このように、18世紀末の西洋文化の精髄であるようなこれらの音楽作品と、その20世紀後半での「再現」演奏・歌唱を聴き、それを21世紀初めの極東人が心を振るわせるというようなことがあるのだが、逆に若い頃には感じなかったことだが、洋の東と西の相互理解はなかなか難しいように昨今思うようになっている。

否、むしろ、先月のヴァンクーヴァーオリンピックがきっかけで表面化したように、隣国同士の理解も難しいのも最近実感しつつある。自分の中で、楽天的な寛容さがどんどん消失してきているような気がしてならない。これは世界を覆うような大きな時代の雰囲気なのか、それとも多くの社会問題を山積している現代日本がかもし出している雰囲気なのか、それとも自分自身固有の問題なのだろうか?

イルカ問題(ドキュメンタリー映画"The Cove" 〔入り江という意味〕の米国でのアカデミー賞ドキュメンタリー部門賞の受賞)と、クジラ問題(シー・シェパードというオーストラリアやニュージーランドに本拠をおく反捕鯨団体による日本の調査捕鯨船への妨害行為で妨害船の船長が日本の海上保安庁に逮捕された)が相次いで世界的に報道されている。また、地中海、大西洋のクロマグロの絶滅を防ぐ名目でのクロマグロの国際取引がワシントン条約で禁止される恐れが高まっている(これに反対しているのは、日本、韓国、オーストラリアくらいらしく、欧米各国は禁止賛成とのことだ。)

突然のように巻き起こったトヨタへのバッシング問題と絡めると、このような大合唱には日本に住むものとしては被害者意識を持ってしまいがちだ。このような感覚が、第二次大戦前のABCD包囲網ではないが、日本の国際連盟脱退の頃にもあったのかも知れない、などと少し非歴史的で、論理性のないことも考えてしまう。ただ、これが島国的な僻み根性も入っているものではあると意識していても、「なぜ、日本だけが責められるのか?」という意識がわきあがってくる。

一方、米国、豪州、ニュージーランドという国々は、ものすごく粗雑に言うと、いわゆる英国人アングロ・サクソンが、先住民を追い払い建国した国なのだが、その英国人の動物愛護の歴史もそれほど古いものではないということも、先日も触れた『ロンドン 旅の雑学ノート』というエッセイを再読して驚いたことだった。

19世紀の英国人は、パブで犬にネズミ殺しをさせるショーを賭けをしながら楽しんでいたという。それ以前の時代には、牛や熊をつないでおき、それに闘犬を飛びかからせて弱らせるという牛いじめ、熊いじめが人気抜群の見世物であり、闘鶏は当然のように行われていた。また、貴族のスポーツといわれる「キツネ狩」は、元々害獣であるキツネを退治するのが目的だったというが、それをスポーツ(娯楽)にしてしまったのが彼らだ。さらには、犬を鉄串につなげた金属性の回転籠に入れて、その熱で犬が苦しがって籠を回してローストビーフを焼かせるという装置まであったという。キツネ狩りが今でも行われているのかは知らないが、現在ではそのような娯楽への反省や罪滅ぼしからか英国人は猛烈な動物愛護精神を発揮しているようだ。(ただ、その時代の英国人は、動物は愛護したかも知れないが、残酷な植民地政策を世界各地で繰り広げていて、本国はその収入で豊かだったということも忘れてはならないだろう。要するに動物は愛護したが、植民地の人間にはその精神は及ばなかったのだ。)

そして、かの国の船乗りたちは、ドードー(『不思議の国のアリス』にも登場)やオオウミガラスを大虐殺してついには絶滅においやった過去を持つ。オーストラリアでは、かつて1965年までは白豪主義(White Australianism)を唱え、先住民(アボリジニ)を差別し、タスマニア・デヴィルに不名誉なデヴィルなどという名前を付けて差別し、野生カンガルーをステーキとして食い、ニュージーランドではキウイ(鳥)を絶滅させてもいる。

そこに、アメリカ的な正義の世界への押し売り「など」が絡んで、いわゆる日本バッシング的な状況を呈しているようにも解釈しうる。

現在、オーストラリアはマルチ・カルチュラリズム(多様な文化を尊重する思想、多文化主義)が公的に唱えられているというが、それが全世界的に広められなければならないはずだ。もし、オーストラリアが、「野生カンガルーを狩猟して食肉にする」行為を映画に撮られて、全世界に「非難」を目的に公開されたらどう思うのだろうか?

伝統文化、固有文化というものは、他の独自性があるからこそ存在意義があるというところがあり、欧米的な世界観を世界中に及ぼそうとする昨今のグローバリズムの動きとは相反するものではある。主体が欧米諸国なので、彼らの「固有文化」があまり批判や非難の対象になることは少ないので、逆に彼らに「非難」「批判」される側の痛みが感じられないのではないかと想像する。

脱亜入欧が、明治以来の国是だった日本で、日本の江戸時代頃の西洋音楽に心を奪われている自分が言うのもなんだが、一方的な文化の輸入ではなく、相互作用、相互理解が健全な関係にとっては重要ではないか、と当たり前のことを考えてしまう。

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