宮沢賢治『春と修羅』、向田邦子『阿修羅のごとく』、トルコ軍楽
4月に国立博物館の『阿修羅展』を見物に行ったとき、萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』のことは直ぐに思い浮かんだのだが、電車で帰宅するときぼんやりと考えごとをしていたときにふと、宮沢賢治の
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾しはぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
をなぜ思い出さなかったのかを考えた。『春と修羅』は詩集の名前でもあり、上記の詩句が含まれる口語詩の題名でもあるが、現代でも新鮮さを失わない言葉とその連なりをもった何とも言えぬ名詩だと思う。日蓮宗に深く帰依していた賢治であるので、当然仏教の諸神である阿修羅を知っていただろうが、この修羅は、果たしてあの興福寺の阿修羅像をイメージしていたものだろうか、などと、関西修学旅行帰りらしい生徒たちで込み合う列車内で考えた。もちろん「おれ=賢治」は「修羅なのだ」と宣言しているのだが、この修羅の詩を読むと、修羅という言葉からの連想としては至極当然ではあるのだが、それだけでなく、この詩のかもし出す雰囲気と詩句からイメージされる世界が、興福寺の阿修羅の遠い異国の地で 夜叉、悪鬼羅刹 の親玉として、仏教に敵対していた時代を心に秘めながら、それを克服超越した仏教への帰依心の相克のような緊張感と似通うようなものが感じられる。また、Zypressen という言葉が使われるのも興味深い。ゴッホの「糸杉」の糸杉、英語では Cypressのことだという。糸杉は、死や哀悼の象徴であり、この言葉をドイツ語で何度も繰り返す。
阿修羅といえば、異才向田邦子の『阿修羅のごとく』というドラマも思い浮かんだ。これも、阿修羅展ではまったく連想が働かなかったのが不思議だ。ドラマのストーリーはほとんど忘れたが、トルコの軍楽隊による、いわゆる生粋のトルコ行進曲の乱暴そうでいてどこかしら哀愁のある不思議な音楽の使われ方が非常に印象に残っている。
数年前に購入した 世界の民族音楽のCD 2006年8月26日 (土)には、
4.オスマンの響き~トルコの軍楽 Turkish military band music of Ottoman empire が含まれ、ドラマのテーマ音楽として使われた音楽も収録されている。
曲名は、古い陸軍行進曲「ジェッディン・デデン」Old Army March "Ceddïn Deden" (Your forefathers)というものらしい。
元々阿修羅の由来が、古代ペルシャ(今のイラン)のゾロアスター教(つまりツァラトストラ)の最高神光明・生命・清浄の神アフラ・マズダ(日本の自動車メーカーMazdaはこのマズダにも由来するという)にあるということで、中近東と一緒くたにしてはならないが、トルコとペルシャの相互の影響関係を広く考えて、トルコ軍楽に、ペルシャ的な要素を感じることもあながち間違いではないかも知れない。
とにかく、『春と修羅』を読み、阿修羅像をイメージし、トルコ軍楽を聞くのは何か不思議な連環の中にいるような気分がする。
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